白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2001年11月17日(土) 帰る場所がないということ。

『ダンボールハウスガール』 萱野 葵  角川文庫 を読んだ。

泥棒に200万円の預金通帳を盗られてしまったOLが
ホームレスになって・・・というストーリーだった。
小説自体は、それほど面白いとも思わなかったのだけれど
「ホームレス」とか「ダンボールハウス」という言葉に
ちょっとした羨望を抱いてしまった。

自分を取り巻く「しがらみ」を捨ててホームレスになる・・・
そんな生き方もアリかなぁ〜 
・・・などと真剣に思ってしまったのだ。
もっとも私の場合は「29歳未婚女性」といっても
一応、養っていかねばならぬ家族を持つ身なので
ホームレスになれるはずもなければ、なる気もないのだが。
でも、ちょっぴり憧れてしまうのも事実だ。

が。

よくよく考えてみると「ホームレスになりたいかも」なんて発想は
とてつもなく失礼なことなのだということに気が付いた。
もしも、私の家族が、友人が、知人がホームレスという立場にたってしまったら
「そういう生き方もアリかなぁ」
・・・などと私はは絶対に思えないだろうから。
なんとかして屋根のある家に住めるよう、
住民票を持ち、あたりまえの生活ができるよう
はばかりながら、おせっかいを焼いてしまうような気がする。

住民票を持たないホームレスは保険治療だって受けられないのだ。
完全なる自由とも言えなくはないが、その分だけ社会的な保障だってない。

帰る場所がない。
迎えてくれる人もない。
社会からも認めてもらえない。

帰る場所がないということ。
これは、たまらなく哀しいことだと思う。

本人は納得の上で、そんな道を選んだとしても
その人と係わっている人が知ったら、どんなに哀しむだろう?
なにもかも捨て、自由に、孤独に
・・・なんてフレーズは魅惑的ではあるけれど
周囲の人間に対して失礼な発想ではあるまいか?
親、兄弟、親類縁者、友人、知人・・
古臭い言い方をするなら「木の又から生まれてきた訳ぢゃあるまいに」
・・・ということだ。
世の中に「まったく他の人間と係わっていない人間」なんていないと思う。
何も無い空間から、突然発生した人間がいるとしたら話は別なのだが。

自分と係わる人がホームレスになったところを目撃したら・・・
きっと平気ではいられないだろう。

「やりたいこと」と「やってもいいこと」は決定的に違う。

『ダンボールハウスガール』は映画化されるそうだが
いったい、どのような解釈でもって映像化されるのだろう?

なんとなく心乱されてしまう1作だった。
ネット上に建設されるHPはネットに建てた「家」なのだろうか?
帰る場所がある人は幸せ?
それとも???

また今日も、つまらない事に思いを馳せてしまった。


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