白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2001年10月14日(日) たまには真面目に「臓器移植」の話題など。

今日は、公開日記再デビューしたら
「絶対に書くぞ」と思っていたテーマにトライしようと思う。

「臓器移植を考える」

臓器移植って「角膜」だの「腎臓」だの
死者でも提供できる臓器もあるのだけれど
まだまだ「脳死者」でなければ提供できない臓器が多い。
「脳死」については様々な場所で議論されているし
私が、ど〜のこ〜の言う問題ではないのかも知れないが
どうしても、どこかに書いておきたかったのだ。

私は「脳死者」からの臓器移植を賛成するし
私自身が「脳死」となった場合
使える場所は、余すことなく使って欲しいと願う。

人の生命の重さは、どんな人だって、みんな一緒なのよ。
・・・なんて言葉があるが、それは違うと私は思う。

まだ幼い子供。
守らなければならない人がいる人。
それなりに人生を楽しんでいるが取り立てて責任のない立場の人。
ある程度の人生を楽しんでこられた年配の人。

それぞれの生命の価値が同じだなんて、私には思えない。

私は独身者で子供もいないけれど
もしも自分の子供が病に冒されて「臓器移植」をすれば助かると知ったら
「臓器移植」をしてでも助けてあげたいと思うだろうし
また「私が守ってあげなければならない人」がいた場合は
「臓器移植」をしてでも助かりたいと思うだろう。

現実問題として考えると、脳死者からの臓器移植は
様々な問題が山積みである。
生存率の問題や、臓器移植後もずっと薬を手放せないという現実。
「そんな事までして、医療に頼って生きている必要があるのか?」
そう考える人も少なくはない。

しかし、私は思うのだ。
「生きていたい」と熱望する人や
「生かしてあげたい」と思わずにはいられない人には
「臓器移植」という手段を用いても生きていて欲しいと。

私の家族は3人とも「脳死」になった場合は
臓器を提供しようと決めている。
たとえ、どんなに哀しくても・・・だ。

「臓器移植を」する、しない。
「臓器を提供を」する、しない。

それは個人の自由だと思う。
どちらの気持ちも尊重したいと思っている。

ちなみに亡父は「死んでから身体にメスが入るなんてゾッとする」
と生前から語っていたので、父が亡くなった時は彼の意思を尊重して
死後の解剖も丁寧にお断りした。

私は本来、議論好き人間なのだけれど
人間の生死が絡む問題については「その人の自由意志」を尊重したいので
理屈で相手を論破しているのを見たり、読んだりするのは苦手だ。
↑苦手だからと言って、目をそむけたりはしないが。

なかなか思うようにはならない人生で
本当に自由に使えるのは、自分の生命だけだと思うから。

まずは自分の生命を有意義に使うところからはじめたい。


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