まつや清の日記

2005年04月27日(水) 小千谷市の地震被災現場を歩く

 中越地震から半年、あまりに遅すぎた現地入りでしたが、小千谷市議会議員長谷川きよさんの案内で市議会事務局、被災現場を歩きました。まずは、カルチャーショック。雪がまだあちこちに残っている事。新潟県出身ですが、小千谷市のような豪雪地帯の春についてあまりにも知らない、というか、静岡生活が長すぎているのか。

 とにかく、視察ラッシュとのことで議会事務局長南雲信一さん、次長の関田隆史さんから全般的な説明を受けました。事前学習としては、静岡県防災局の現地調査・支援報告書があり、そこにいくつかの問題点の指摘もあって、ずいぶんと助かりました。家屋の応急危険度判定からすれば避難生活者は4136人なのに実際は29243人であったのはことの理由など小千谷市なりの回答もいただきました。

 しかし、やはり一見は百聞にしかず、で納得と言う感じです。阪神淡路大震災と違って中山間地での被災で尚且つ雪国という特殊性が重なり、例えば住宅応急修理にしての被災から1ヶ月以内ということですが雪の中で申請して修理しようにも修理できない、法律が雪国対応になっていない、ということが強く指摘されていました。県独自の収入基準のない、申請期間3ヶ月という独自支援策が取られていました。

 火事が1件しか起きなかった、これは阪神淡路の経験からガス会社が揺れに関知してマイコンでガスをストップさせる装置が行き渡っていた事は大きな成果とのことでした。発災後に神戸市の復興支援室の方がすぐに駈けつけてくれた、今後は中山間地の地震被災現場部へは、今回の経験を生かしてすぐに支援に駆けつけたい、とのこと。

 このあと四時間にわたって、長谷川さんが被災現場を案内してくれました。そこで見たこと聞いたことは、中山間地の被災復旧とは、高齢化した方々による農業の継続というまさに日本の農業問題そのものが、大きな課題としてのしかかっていることでした。

 これに関連して山古志村が何故あんなに全国から注目されているか、それは現場を歩く元村長さんが、中山間地にいきる村の人々の将来像を住民と共に考えるという姿勢があるから。一つの例にとして長岡市に仮設住宅の傍に畑を用意した事にも現われている。高齢者が仮設住宅で長く生活する事は、ある意味でストレス、それなら畑仕事で以前の生活感覚を取り戻す、リハビリでもあり、又元気に山古志村に戻れる、というのです。

 それにしても長谷川議員が常日頃から中山間地の活性化のためにどれだけ努力されているかが一つ一つの言葉を通じて伝わってきました。中山間地でのNPO法人によるグループホーム「ほのぼのおぢやの里」の9名の方々が被災直後から小学校のグランド、教室、魚沼病院の廊下、大和町の八色園、そして「おぢやの里」に戻るまでの脱出劇は感動的でさえありました。中山間地活性化策として、近々、NPO法人「スローライフおぢや」の立ち上げ、「菜の花プロジェクト」など様々な計画を持っているとのこと、本当に勉強になりました。

 一番最後に案内して貰った所は、山崩れで車の中で母親と子ども3人が生き埋めになり小さな子どもさん一人だけ救出された信濃川の妙見堰でした。半年前のあの生々しい記憶が呼びおこされました。そして、今、まさに救出が続く尼崎の脱線事故現場にオーバーラップ。100名を越えるかもしれない死者数。災害や事故と関わる偶然性と運命。深く考えさせられました。


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K.matsuya

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