妻が夜歌舞伎に行くと言う。
朝からその準備で家事その他ほとんど何もしない…。 あ,朝食だけは前の晩から用意したりして,マフィンを焼いていた。 しかし,これは今凝っているだけであって,「焼け」と言えば金輪際焼くまい。
暑い,とかうまく行かないとか,鏡を買えなどうるさく吠えながらも,なんとか着物を着たと思ったら,
「車」
アナタねえ。
せめて,「車で送ってください」と言いなさい。
まあ,後々うらまれてもいやなので,駅までお送りする。 帰りはムリですからね。 たぶん風呂に入って,寝てしまいますからね。 タクシーがいますから,それに乗って帰ってきてくださいね。
思えば,これがまずかった。
妻がいないので平和な我が家でゆっくり過ごし,風呂に入っていると,
「おとーさーん,おかーさんからメール」と下のムスメ。
は?もうお風呂に入っているって言ってくださいね。
風呂から上がって, タクシー拾いなさいね,と念押しでメール。 これをやっておかないと,おかしなところがけちなあの人のこと, 勝手に歩いて帰ってきて,ぶうぶう文句を言うに決まっている。
しかし,これも実はまずかった。
「タクシーいない」と不穏なオーラが漂うメール。
電話を入れてみる。
えーと,今歩いてらっしゃるんですかね。
「ええ。歩かないと帰れませんから」 「タクシーなんか全然いませんから」 「タクシーいるからって言われましたけど」
矢継ぎ早に八つ当たり。
それで歩いて帰ってくるんですね。
「はい。じゃ」
ぷちっ。
完全に逆恨みだと思うが,仕方ない。 ちょっと遅いが夕涼みがてら様子を見に行くか。
自転車に乗って行く道に目を凝らすと, 真っ黒な塊が向こうからすごい勢いでやってくる。
おお,まさに猪…ではなく妻である。
「自転車で迎えに来られてもねえ」
むっ。 まあ,そう言わずに荷物だけでもかごに入れなさいよ。
「バッグと人形焼きだけだけど,まあいいか」
なんでそんなに威張ってるんだ。 こういう無意味な威張り具合は下の娘にしっかり遺伝してるなあ…。
家で待つ娘達に思いを馳せながら,がしがしと歩き続ける妻の横をゆるゆると走る。
ふと自慢のサイクルコンピューターを見ると,なんと時速5kmだ。
「えっ,そう?」 「着物で時速5kmって速いよね」 「じゃあ,洋服だと6kmは出てるよね,すごーい」
思わぬことですっかり機嫌が直ったのだった。
つけといてよかった。サイクルコンピューター。
|