2006年02月07日(火) |
ペルーの旅2・・・南米への日本移民の歴史 |
2時間遅れの出発は挽回できず、予定より2時間遅れのリマ到着となった。リマの空港には山形県出身の日系二世の遠藤氏が出迎えにきていた。
写真はリマの空港ビル
日本人のペルー移民の事情をFukuoka Latinaさんのサイトから借用して調べてみると以下の通りである。 以下は引用 ラテン諸国と日本との交流史 〜日本人移民の歴史〜
ペルーへの日本人移民の歴史 南米西部にあり、日本と同じく太平洋に面しているペルー。この国は、南米の中で最初に日本人移民を受け入れました。1899年に桜丸で790人の労働者が渡って以来、1923年に移民団というシステムが廃止されるまでに、実に1万8258人もの移民がペルーへと向かい(一番多いのが沖縄県の3686人で、次に熊本県の2680人、広島県の1702人、福岡県の1485人などとなっています。また、九州7県からの移民の合計は5367人(29.3%)、沖縄を入れると実に9053人(49.6%)となります)、それ以降も家族呼び寄せなどの形で移民はこのアンデスの国へと渡り続けました。そして、現在8万人の日系人がこの国に住んでいますが、この数字は130万人以上というブラジルを除けば、中南米で最大のものです。
日本人移民は農業、特に砂糖キビ園での労働を目的として移民をしたのですが、ペルーでの農業は厳しいものでした。そのため、移民の大部分は農業をあきらめ、やがて首都リマなどで床屋や商店などの経営を行うようになりました。ことばの問題などがあり、日本人同士で協力してビジネスを行い、少しずつ社会的地盤を固めていったのですが、それが一般のペルー人には、閉鎖的と思えたこともあったようです。
1941年に始まった第2次大戦はペルーの日系人社会に大きな傷を残しました。米国の支援に回ったペルーは、国内に住んでいた日本人や日系人を捕まえては、米国の集中キャンプに送り込んだのです。多くの人がようやく住み慣れたペルーから引き離されてゆきました。戦後ペルーに戻った人もいましたが、日本あるいは米国などでの生活を強いられた人も少なくなかったのです。しかし、スペイン語を母語とする2世や3世が、ペルーを代表する大学に進学してゆくようになり、日系人は次第に社会の重要なポジションを占めてゆきます。
1990年の大統領選は、日系人にとっては非常に難しいものでした。当初はスペイン語圏全体で有名な作家バルガス・リョサが当選するものと見られていましたが、日系候補アルベルト・フジモリが有力な対立候補となってきたのです。人種対立が激しいペルー社会の中で、少数派である日系人の大統領が生まれた場合、日系社会に対しての風当たりが強くなるのではないか、という不安があったのです。しかし、当時のペルーを震撼させていたゲリラの鎮圧にほぼ成功し、経済的にも安定した成長を達成しました。とはいえ、その後噴出した問題を考えると、彼について歴史的な評価を下すには、もうちょっと時間が必要でしょう。 (by Miguel) 引用終わり
遠藤氏は当然のことながら藤森支持者で、藤森元大統領の功績をことあるごとに褒めたたえていた。
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