前潟都窪の日記

2005年03月03日(木) 秦   河 勝 連載16

 聖徳太子の幼名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたがこれは母親の穴穂部間人皇女が、池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の庭を散歩 中、にわかに産気づき厩戸の前で出産したので厩戸皇子と名付けられたという。

 穴穂部間人皇女の母は、堅塩姫の同母妹の小姉君(こあねぎみ)であり、ともに欽明天皇の后である。
聖徳太子の生まれた574 年(敏達天皇3年)といえば大和朝廷は内外とも
に、多くの難問を抱えていた。

 対外的には562 年(欽明天皇23年 この年秦河勝誕生)に新羅に奪い取
られた任那の奪回、百済の軍事的救援と百済や新羅の大和朝廷に対する朝貢
体制の維持強化が、最大の課題であった。

 国内的には大和朝廷内における天皇専制の確立であった。継体天皇の御代に中央権力の強化策として、政治組織は氏姓制から官司制へと、改革され ていたが、まだ天皇専制が確立されていたとはいえなかった。敏達天皇の朝廷には二つの中心勢力が拮抗していた。一つは天皇、一つは官司制の指導者蘇我氏である。

 天皇の意図する方向は天皇専制であるが、蘇我氏との間で幾重にも絡み合った姻戚関係はこれに制肘を加えていたのである。蘇我氏は天皇を上にい
ただきながら、朝廷のありかたとしては、豪族連合政権の性格を強く打ち出し、自分が連合政権の指導者になろうとしていた。連合政権を 固めるため波多、平群、紀、巨勢、葛城等の大和朝廷を構成する主要豪族は、自分と同じ祖先を持つ同族であるという系譜を作り上げようとさえした。そして帰化系氏族を配下に置き、官司制を掌握することにより連合政府の指導者として実権を握り天皇を飾りものにしようと画策した。その最たるものが蘇我稲目が欽明天皇に対してとった外戚政策である。即ち自分の娘である堅塩媛・小姉君という同腹の姉妹を欽明天皇の妃として送りこんだのである。


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