▼尼崎工場労務課 硝子メーカーに入社して尼崎工場の労務課に配属されたのが昭和37年4月であった。労務課労務係の構成は労務課長中村澄人氏、労務係長沢田章氏、労務班主任中鼻守男氏、係員菅家進氏、関亮夫氏、事務員峰和子さん、井上公恵さんであった。係員は菅家、関、都窪と1年刻みで入社年次が続いていた。
ところでこの会社では労働協約の改定のための団体交渉というのがあってベースアップを含めて、1年間の労働条件の改定を集約して7月に約1ケ月かけて交渉するのが労使慣行となっていた。労務課長は本社へ集合し団体交渉に臨むが労務係長以下の係員は工場にあって交渉期間中、工場支部の動きを観察し情報収集の任にあたることになっていた。また交渉経緯が本社から逐一電話で流されてくるのでこれを録音テープにとっておいて、再生し活字化して工場の管理者層へマスプリントして流していた。従って、団体交渉の期間中は、夜遅くまで暑い中を仕事することが多かった。当時高熱作業職場を管轄に持つ労務課としては、事務所にクーラーを入れることもできず背の高い扇風機が生温かい風を掻き混ぜている下で、額に汗しながら仕事をしたものである。
労働協約改定交渉も妥結して、調印式も終わり重苦しい環境から解放されたある日、東京本社から帰ってきた課長の中村さん、係長の沢田さんに引き連れられて、尼崎は三和商店街の中ほどにあるマルカというビアホールへ陣取った。メンバーは男だけで、中村、沢田、中鼻、菅家、関、勇の6人であった。ビールの大ジョッキで乾杯し、飲めるだけ飲んでみようということになりめいめいジョッキを空けては、机の上へ並べていった。勇は13杯を空にした。当日一緒に飲んだ連中はいずれ劣らぬ酒豪揃いであったから、年配の課長、係長、主任の3人は10杯以内であったが、若い菅家、関の二人はほぼ私と同じか或いは1〜2杯を多く空けた筈である。飲みながらケインズの経済学説について議論したように思うがなかなかアカデミックな雰囲気であった。とはいうものの相手はビールであるから20〜30分おきに便所へ通いながらの痛飲であった。ビアホールへ入ったのが5時頃であったから、11時の看板まで6時間にわたって怪気炎をあげながら飲んだものである。
さすがに翌日は体がきつく、出てくる汗がビール臭くて、一日中ぼうっとしていた。事務所にいるのも辛くて、現場視察と称してガラスの窯の側へ行って汗を流し作業員達と馬鹿話をしながら時間を潰した。翌々日も酔いは抜けず三日酔いであった。あのときはもう金輪際ビールは飲むまいと思ったほどの苦しさであった。この時の酒量が私の飲酒歴の中では最高の記録となったのである。
硝子会社に入社して最初に配属になった尼崎工場でよく通った店に阪神出屋敷駅前のホルモン屋がある。ここの親父が勇が本社に転勤になったと挨拶に行くと今日はお代はいらない、送別会だから飲めるだけ飲んで食えるだけ食ってくれと言って御馳走してくれたのも忘れられない思い出である。 同じく出屋敷駅前に「スリーナイン」という喫茶店があって、勇が作業員寮である甲子園寮の舎監をしていたことから、甲子園寮生とよくコーヒーやビールを飲みに行っていた。ある日甲子園寮の大久保君、神戸君、毛戸君らと夕方立ち寄ったことがあった。するとどういう風のふきまわしか、ママさんが今日は私が奢りましょうということになって、出屋敷の小料理屋を3〜4軒はしごして飲み歩いたことがある。これも懐かしい思い出である。
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