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2003年11月07日(金) ■ |
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狂気の桜(映画の方) |
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1度試写会で見たのですが、 最近もう一度見る機会があって、 チョット考えさせられる事がありました。
日常って、何なんですかね?
「アメポン」と比喩される日常に甘んじる人達、 あたかもそれが自身で考え抜いた結論のように振る舞う、渋谷の若者。
『ネオ道場』と名乗り、 そんな若者達を暴力によって排除する山口、市井、小菅。
「個人としての憂い、悲しみ、怒り」。 それはいわゆる右翼団体とは一線を隔すという山口。
理論ありきの暴力。
繰り返しの日常を馬鹿にする。 日常に埋没する事に抵抗する。 だけれど、 自分達の行動(暴力)も、いつしか日常になってしまう悲しさ。
理論よりも行動(暴力)の小菅は、結局組織に吸収され、 理論を好まない市井は日常の無い「消し屋」に憧れ、利用され、 理論と行動を共にする山口も、結局は暴力に制される。
狂気は結局己の中にあった。 それを体現しようとする姿は、とても悲しい。 見ていて痛い。 だけど、 思った事を体現しない人間にはなりたくない。
映画の中で使われる素材が素材(ナショナリスト、右翼、暴力)だけに、 非常にナイーブな感情をはらむとは思うけれど、 この素材でなければ作れなかったものだと思う。 表面だけ見れば、「青臭いガキ」の一言で済んでしまう。 山口の苦悩だって、結局は他人事、「馬鹿の暴走」で済んでしまう。 だけど、それじゃ駄目だと思う。
「個人主義を貫く」事の痛さに相乗効果の、「暴力」の痛さ、 考えさせられる映画ではあるけれど、 何度も見たい映画じゃないね(苦笑)。
あと、もっすご逸れるんですが、 右翼団体組長が在日って言う。 「憂うべきは日本」。
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