表身頃のココロ
ぼちぼちと。今さらながら。

2005年05月18日(水) 「ミリオン・ダラー・ベイビー」

◆ミリオン・ダラー・ベイビー

幸いにもネタバレ地獄に落ちる前に試写会で見ることができたものの、はや2か月近く経つ・・・。
ココロ打ち震えつつ“これはもう別格だ!”と思ったものだ。
久々に記憶の開墾を始めてみる。

“ボクシングとは尊厳を奪い合うスポーツだ。勝ったものが負けた者の尊厳を奪い取るのだ(大意の記憶)”という、冒頭のナレーションが後で大きく沁みてくる。

優れた映画の常として、この映画もいろんな角度からきちんと描かれているが、私的にはイーストウッド演じるフランキーの“贖罪と許しの物語”としての見方が気に入っている。

冒頭、就寝前の祈りで、返還された手紙から娘のために祈り、その後“あとは毎日同じ祈りなので省略”と言っていたが、後にそれはモーガン・フリーマン扮するエディとのことによる祈りと知れる。また、23年間、1日も欠かさず教会に通い詰めていた事も後に知れるが、それもまたエディに対する罪の意識からだったのだと思える。
カソリックであること、ゲール語のイェーツ・リングネームとしてつけた“モ・クシュラ”、リング衣装の緑などからも彼がアイルランド系と知れるが、アイリッシュ気質の頑固さそのものだ!
そのかたくななまでの教会通いは自分に課した罰のようにも見受けられる。
また、司祭をおちょくるような質問ばかりしてたが、両者の間には長年にわたる信頼関係が築かれていることも後に知れる。
などなど、カソリックとしてのバックグラウンドが丹念に描かれれば描かれるほど、後の選択が厳しく重いものとしてのしかかってくる。

フランキーは、23年前の試合でエディが失明に至った事を自分のせいとして十字架を背負って生きてきた。
そして23年後、愛弟子マギーの生死の選択を迫られ、苦渋の末、再びより重い十字架を背負うこと覚悟でアドレナリン注射をバッグに入れ出かけようとする。
その時、フランキーの行動を悟ったエディが言う。
「生を与えられ、マギーは充分生きた」。
それはすなわちエディが夢見、失明により中断され叶えられなかった生のことでもある。
生きるだけの為に23年間という残りの時間を過ごしてきたエディの言葉は深くフランキーの心に沁みたはず。エディにより許され、背中を押された形で事に及ぶフランキーに迷いは無かったはずだ。

“ボクシングとは尊厳を奪い合うスポーツだ”という、冒頭のナレーションが思い出される。尊厳を勝ち取ったのがマギーなら、奪われたのは誰になるのだろう?
機械によって生き長らえていたかもしれないマギー自身のような気がしてならない。

本国アメリカでは尊厳死の観点から論争が起こったと聞いたが、「海を飛ぶ夢」のように真っ正面から尊厳死を扱った映画ならともかく、この映画はその是非を問うものではあり得ない。その決断に至るまでのドラマとして深く味わうべきだと思う。

また、脇の話も皆素晴らしい。
エディの110試合目(!)の勝利は、この映画唯一のカタルシスだ。

リングネームの“モ・クシュラ”の意味、日本語訳はぴんとこなくて忘れてしまったが、"My dearing, my blood"・・・熱い!そして感動。 

マギーの育った環境や家族の言動は、典型的ホワイトトラッシュとして決して特別なものではないように思う。福祉切り捨てとかが連想され、思わずブッシュの顔が浮かんでくる。
超反則技くり出しドイツ女とマギーの家族が悪役扱いされるが、彼女らなりの心貧しいが生きるすべなのだ。

フランキーが消えた後、エディがジムを維持していく事になるのだろうが、経営者として漂白剤のブランドは変えるのだろうか?

ところで、エンドロールを眺めていて、えっ?と思ったのは“Little girl on truck”モーガン・イーストウッド!。ガスステーションでマギーと微笑みを交わしていた子だ。
「許されざる者」で、娼館のおかみを演じたキャリー・フィッシャーがイーストウッドの子を産んだと覚えているが、映画でのモーガン・フリーマンとの友情もあるしその時の子かなと思って調べてみた。
いやいやびっくり、その後また再婚した超年下妻との子だった。
音楽は息子共々担当しているし、イーストウッド、かっこいいなぁ。


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