2004年11月12日(金) |
フレデリック・ワイズマン映画祭2004 |
ドキュメンタリーの大家ワイズマン。 東京では多分2〜3年に1度、日本中では毎年どこかで上映されていると思われる、ワイズマン映画祭。 今回はこの二本だけになりそうだ。
ワイズマンとはちと話がずれてしまうが、マイケル・ムーア「華氏911」の批評で「ムーアの一方的な誇張された主張をドキュメンタリーとは呼べない」という趣旨の意見がある。 最初に聞いた時には目が点。ムーア嫌いや共和党贔屓の人の悪口だろう位に思っていた。 しかし映画がヒットするにつれ、同じような意見を確信的に述べている人が少なくないと体感。ショック。 一体、ドキュメンタリーが中立の立場に立ったものでなくてはならないという誤解はどこから生まれたのだろう? 程度の差こそあれ、作り手の主張が入っていて当ったり前だと私は思うぞ。
中立なドキュメンタリーという幻想は存在するのだろうか。 あるとしたら、その代表がワイズマンだ。 決して感情をあらわわさないカメラ、もちろん誘導的なナレーションも音楽も無し。 あらゆる角度からの事実のみを我々の目の前にずらりと並べ写し出す。 でもそれが中立なのだろうか?素材選びの段階ですでに作り手の意志がある。 そして撮したフィルムを編集する段階で、その作り手の意志が形となっているはずである。
◆ DV2 DV2 [2003年/160分]
「DVードメスティック・ヴァイオレンス(2001)」の続編とも言うべき一本。 前作「DV〜」では、家庭内暴力の現場や救護施設を舞台とし被害者の立場から描かれていたのに対して、こちらでは主にDVの加害者とされる人の逮捕後の法廷を追っていく。 フロリダ州ではDV防止法が施行されてから、配偶者・愛人関係であれば些細なぶった蹴ったひっかいたのケースでも警察が呼ばれれば、ほとんどが逮捕・裁判になってしまうという。 典型的貧困・ドラッグ・暴力の図式に当てはまるケースから、単なる痴話喧嘩まで次々に持ち込まれる様々なケース。 機械仕掛けのように(そうせざるを得ない)次々に保釈のあるなし保釈金などを決定していく裁判官。オークション会場の司会者のようだ。 その後、略式裁判らしきもののシーンになるが、ほとんどが被害者・加害者の言い分が食い違い、どちらが被害者なのか混乱してくる。ここでも裁判官は時にため息混じりに次々と裁いていく。 接触禁止の判決を受けた後、取り下げの訴えに来る人たちのシーンで終わるが、どう見ても、夫からの脅しで取り下げに来たとしか思えない妻。痴話喧嘩の腹いせの結果に満足して取り下げる人。 DV防止法の功罪について思いを巡らせてしまう。 興味が尽きない160分はあっという間に過ぎてしまった気がする。
◆ チチカット・フォーリーズ Titicut Follies [1967年/84分]
猥褻罪もしくは国家保安罪以外の理由で検閲され、'91年にワイズマン側が勝訴するまでの24年間、アメリカ国内で一般上映が禁止されていた唯一の映画だという。 ワイズマンのデビュー作、とにかく凄いという評判もあり、いつも見たい、見るぞ〜! と思いつつ、そのたび何故か必ず見られない・・縁がなかったのがこれ。 平日昼間にもかかわらず、会場のアテネフランセの席がほとんど埋まっているという普段 あまり目にできない光景と共に、今回ついに見ることができた。 精神異常犯罪者の矯正施設の日常を記録した作品である。 人間の奥底に遺伝子として受け継がれている残虐性をふとした瞬間に見てしまうのは楽しいことではない。これは遠い過去の事・特殊な収容所の事ではなく、どこにでも口を開けて待っている不条理への恐怖なのだと思う。
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