4ヶ月前の夏。東海大菅生の金森敬之は、西東京大会決勝のマウンドに上がっていた。対するは昨夏も苦杯をなめた日大三。金森はいつもと同じように淡々と投げた。130km後半のストレートと切れ味鋭いスライダー。そして、夏前に覚えたフォークボール。 試合は1点を争う好ゲームに。中盤、金森のフォークが冴え、日大三を封じる。しかし、同点で迎えた8回裏。金森は1死三塁から佐々木にタイムリーを打たれ、勝ち越し点を許した。そして、そのまま試合を終わった。
試合終了の瞬間、金森は9回裏に備え、一塁ベンチ前でキャッチボールをしていた。最後の打者がファーストゴロに打ち取られたのを見送ると、両膝に手をつき、しばらくの間、動かなかった。挨拶の列に加わったのは、一番最後。重い足取りで列に並び、挨拶を終えた。肩を落としながら、一塁側応援席に向う菅生の選手。だが、そこに金森の姿はなかった。 金森は試合後の挨拶が終わると、そこにうずくまり、顔を伏せて泣いていた。いつまでも泣き続ける金森を迎えに行ったのは、横井監督だった。選手ではなく、横井監督が迎えに行った。金森は横井監督に抱かれるように、一塁側応援席の前へ向った。応援団の挨拶が終わったあとも、金森は泣いていた。
あんなに泣く選手は初めて見た。閉会式が始まるまでの時間、延々と泣いていた。
「応援してくれる人たちのために、絶対に甲子園に行きたい」 夏の大会前、金森はそう話していた。 金森は大阪のオール羽曳野ボーイズから、東海大菅生へ入学してきた。中学3年のとき、横井監督がオール羽曳野の練習に訪れた。目的は、ある選手を菅生に誘うためだ。だが、その話は流れた。代わりに、菅生入学の話しがついたのが金森だった。 横井監督はいう。 「中学時代は大した投手じゃなかったよ。でも、人間的に素晴らしいものがあった。顔は悪がきみたいな顔してるけど、ハートは強い」 金森も中学時代を振り返る。 「エースじゃなかったんですよ。うちの代は強くなくて。1コ上は田辺さん(明徳義塾ー関大)がいて、1コ下にはダルビッシュ(東北)。自分の代だけが甲子園に出てないんですよ」
横井監督は父親のような口調で金森のことを話す。 「あの子は背負っているものが違うんですよ。東京の選手とは野球にかける思いが違う。大阪からひとりで出てきて、甲子園に出られなければ、地元に帰れない。それくらいの思いで野球をやっているんです」 大阪から東海大菅生の野球部に来たのは、金森が初めてだった。横井監督は冗談っぽくいう。 「大阪から来るというので、教員の中でも話題になっていたんですよ。どんな悪ガキなんだって、警戒していてね(笑)。でもあの子と実際接したら、誰もがあの子の優しさに魅かれますよ。人間的な魅力は本当に大きな子です」
横井監督は、金森のことを「あの子は野球小僧なんですよ」とも表現した。 うまくなりたい、勝ちたい……つねに追求していた。そういった金森の思いは、チームにも浸透した。 「大阪人特有の気質というんですか。そういうのがあの子にはあるんです。常に勝負をしているというか。気の強さを持っています」 大人しかったというチームが、大阪出身の金森がいることで、チームが変わったという。
「甲子園に出て、色んな人に恩返しをしたい」 金森の夢は叶わなかった。でも、プロ野球という、それ以上に大きな夢が今日叶った。大阪から遠く離れた札幌で野球をやる。 「金森の家は、おじいちゃんもおばあちゃんも健在でね。すごく寂しい思いをしてると思うんですよ」 横井監督の言葉が思い出される。 東京よりももっと遠い札幌。家族に雄姿を見せるには、プロ野球で活躍するしかない。
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東海大菅生には、金森の弟・基彰も1年生に在学中。もちろん野球部。大阪から東京へ。兄と同じ道を選んだ。 「基彰は上宮太子中に通っていたから、そのまま上宮太子で野球ができるんですよ。何もわざわざウチに来なくてもねぇ」 冗談交じりに、横井監督は話していた。それでも、弟の存在は金森を大きく変えた。 「基彰が来てから、金森はすごく変わりました。人間的な成長がありましたね」 金森本人もこう話す。 「弟が来たいというのは聞いていたんですけど、本当に来るとは思ってませんでしたよ(笑)。最初はやりづらかったですけど、いまは弟の前で無様な格好はできないと思って、やってます」
弟は今秋の都大会で背番号14を着けてベンチ入りを果たした。兄の果たせなかった「甲子園」という夢は弟に託されている。
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