加藤のメモ的日記
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同志殺しと銃撃戦はなぜおこったのか
高度成長の日本を震撼させたz、新左翼による若者たちによる数々の凄惨な事件、半世紀を経て悲劇の真相を読み解く。
◆あさま山荘事件に日本中が戦慄した10日間
札幌冬季オリンピックが閉会した直後の1972年(昭和47)年2月、瞬間視聴率80.7%とという、オリンピックを上回る「あさま山荘事件」が起こった。坂口弘(当時25歳)をリーダーとする連合赤軍の「残党」5人が同年2がつ10日、警察に追われて長野県南軽井沢の「あさま山荘」に逃げ、31歳のかんりにん夫人を人質にとって籠城。その周囲を、後藤田正晴警察庁長官率いる1635人の警察隊と、やく1200人の報道陣が取り囲んだ。
10日間にわたって警察と赤軍の息詰まる銃撃戦が展開され、生中継するテレビの前に日本中が釘付けになった。現場で取材にあたった報道写真家の山本浩一氏が語る。「雪景色の凍てつくような寒さの中、眼前で銃撃戦が展開され、まさに命懸けの取材でした。ある日、バーンという音と共に、近くにいた信越放送のカメラマンが左足関節下を撃ち抜かれ、救急車で運ばれた。私たちカメラマンは雪の中を匍匐(ほふく)行進しましたが、身体が硬直しました」
10日間の攻防を振り返ってみよう。1日目、犯人グループは山荘に強固なバリケードを築いた。警察側は犯人の人数を把握できなかったが、弾薬は2800発と推定した。2日目、警察がマイクで投降を呼びかける。連合赤軍は「人民の幸福のための武装闘争」を目的としていたため、管理人夫婦の縄を解いた。三日後。坂口の母親らが投降を説得。犯人グループは、憧れていた革命家・毛沢東主席が、「米帝」のニクソン大統領を招待した、というテレビニュースに衝撃を受ける。
4日目、玄関先に近づいた民間人が撃たれ死亡。機動隊2人も撃たれて殉職した。警察は山荘の電源を切った。5日目、警察が催涙ガスを発射し、山荘の2階と3階にガスが充満する
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