加藤のメモ的日記
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2017年05月03日(水) 武田信玄の手紙

威厳捨てた弁明・謝罪編

浮気はしていないと必死の弁明

1 弥七郎に度々言い寄ったが、虫気(腹の病)ということで相手にされていない。これは偽りではない。

2 弥七郎を伽(寝床)に寝させたことはない。以前にもそのようなことはない。まして、昼夜、弥七郎とそのようなことに及んではいない。今夜もそうである。

3 別して、知人ということで色々走り回れば、かえって疑いを受け、それは迷惑である。この条々、もし偽りであれば、当国一、二、三大明神、富士、白山、殊には八幡大菩薩、諏訪上下大明神より罰をこうむるべきである

   春日源助宛  7月5日

並みいる戦国武将たちから「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄。1546(天文)年のものと推測されるこの手紙からは、純情な恋心がうかがえる。宛先の春日源助は、武田家の軍学書「甲陽軍鑑」の著者であり、武田二十四将に数えられる家臣・高坂昌信といわれている。20代の信玄の恋の相手は男性だったのだ。

源助から弥七郎との浮気を詰問されたのだろう。手紙では言い寄ったことは認めながらも「一度の寝ていない」と必死に弁明し、これが嘘ならば神仏より罰を受ける、と言い切っている。「当時は男性同士の色恋、衆道が一般的だったとはいえ、その痕跡が文書となって残っているのは珍しく、この一通限りではないでしょうか」(静岡大学名誉教授・小和田哲夫氏)

若くして東北地方のほとんどを支配した独眼竜・伊達政宗は筆まめだったことで知られている。一般的に戦国武将の出す手紙は、戦場での指示や報告の内容が多いが、正宗の場合は私信も多く残る。この手紙は小姓頭二人あての指示書だが、酒の席で頭を小突いてしまった部下への謝罪が書かれているのが面白い。酔った勢いで言い訳交じりではあるが、素直に反省している。

「武将にとって部下とは威厳も見せる相手。たとえ自分が悪くても謝るなどという弱みはなかなか見せないものです」(小和田氏)豊臣秀吉や徳川家康といった天下人に度々謀反を疑われながら生き残った正宗の処世術は、こうした周囲への気配りだったかもしれない。


『週刊ポスト』5.5


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