加藤のメモ的日記
DiaryINDEX|past|will
| 2016年03月28日(月) |
老人学の再教育が必要 �� |
しかし最近の高齢化社会の歪みは、何とかしなくてはならないまでに問題が深刻になっている。私と同時代よりもう少し若い年齢の人たちは、家族の問題を子育てから共稼ぎの問題まで、国家や社会が組織的に解決することこそ、先進国の当然の姿だと持っているから、この高齢化社会と付随した老人問題を社会が解決すべきだと、責任を押し付けている面もある。しかし私に言わせると、いかなる政党も政治家も、この人間的な現実を、制度として解決できるとは思えない。
前世紀の終わりくらいまでは、老人は個人の家庭が面丼を見切れなくなったら、どこか「施設」に預ければいい、という漫然とした期待感があった。しかしこの若年層の減少と長寿の現実を見ると、もうそれは不可能だということがわかる。一例をあげれば、20年くらいまでシンガポールでは、高齢者抱えた富裕層は、少しも高齢化を深刻に考えていなかった。お金を出せば「長逗留も許される」いい病院もある。フィリピンやインドネシアから出稼ぎに来てくれているメイドさんは、月に5万円も出さずに住み込みで働いてくれたから、せいぜい週に一度の休みを与えれば、この人たちがほとんど24時間、老人の傍に付き添っていてくれた。熱帯だから。老人のベッドの下にアンペラのようなものを敷くだけで夜もそこに寝て、夜中のトイレの面倒まで見てくれる場合もあった。
しかしシンガポールでさえ次第にそういう人手はなくなってきた。途上国が繁栄してきて、2年に一度しか国に帰れないような出稼ぎに来る人はだんだん減ってきたのである、貧しい国には『貧乏人の子だくさん』という例が多かったのだが、次第に家庭が持つ子供の数もだんだん減ってきた。シンガポールでさえ出稼ぎの手を当てにできなくなったのだから、日本社会が規制を緩めて、病院や高齢者施設に外国人労働者を入れようとしても、もう無理なのだ。マンパワーの供給源が枯渇してきたのである。
私は近い将来に、日本でも惨憺たる老人虐待の現象が始まると予感して、そういう未来小説を書き始めていたのだが、ごく最近、現実に看護役の男性が介護施設にいる87歳の男性の老人を含む数人を、4階の手すりから投げ落として殺したとして逮捕、起訴された。その犯人の殺意の理由がある日テレビで報じられた。殺された老人は、入浴を命じても拒む世話のかかる人だった。我が家の90歳の夫も始終入浴を嫌がる。それで私はニュースを聞くや『あなたもお風呂を嫌がると、私に4階から捨てられるわよ』と言ってやった。困るのは、我が家に4階がないことと、私には力がなくて、2階からでも人を手すり越しに投げ落とす元気がないことだ。
夫はニヤリとと笑って言った。「僕は昔から、風呂とトイレと床屋が嫌いなんだ」威張ることではに。威張ることではない、と思うのだが、私の友人の夫は、体の状態を聞きに来てくれたケアマネージャーさんに「自分でお風呂に入って背中を流せますが?」と聞かれると「僕は生まれれてこのかた、風呂で背中を洗ったことがないんです」と嬉しそうに答えたという。これもボケではない。始末の悪い都会型インテリ老人の、確信型の嫌がらせである。
我が家の夫は、どちらかというと元気な年寄りに見えるかもしれない。私より早く歩ける面があるし、食事、トイレ、お風呂も一応のろのろながら、自分でできる。しかし風呂場は危険な場所だ。何回も転んで立てなくなり、私は入浴を手伝うのが怖いという浴室恐怖症になりかけた。それで週に一度だけ、専門家にお風呂に入れてもらうサービスを受けようとしたら、一度で拒否された。風呂ぐらい一人でゆっくり入りたいというのだ。挙句の果てにまたも名文句を吐いた。「僕は90年も人間やってきているんだ。風呂の入り方くらい、教えてもらわなくたって知っている」
新しく高齢者になった世代は、謙虚でもなく、かわいくもなく、実に学ばない。老人はどのようにしたら端に迷惑をかけないか学習する必要がある。老人学の再教育のために確立も今や必要なことだろう。
『週刊ポスト』 3.25
|