加藤のメモ的日記
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| 2014年06月17日(火) |
頭取たちの決断 �� |
エアポケットの激突死
1998年11月、週末の13日は金曜日だった。北海道拓殖銀行はこの日、最後の日を迎えた。1997年11月の破綻から、ちょうど1年が経過していた。1900年、北海度拓殖銀行法に基づく国策銀行として発足してからほぼ一世紀…。
最後の頭取となった川谷�脳擦呂修瞭�、1年前は自らがトップの座にいた同行から、ずさん融資で破綻の原因を作ったとして、元頭取の鈴木茂、同、山内宏らと共に、総額108億円の損害賠償訴訟を起こされた。川谷と山内は、その4カ月後には、特別背任容疑で北海道警察に逮捕された。拓銀の落城は、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行よりも1年早かった。当時、大蔵大臣の三塚博は「大手行は一行たりとも潰さない」と宣言していた。だが、市場の力の前には、大見えを切った大臣の約束も、無力な空念仏でしかなかった。
拓銀破綻は、かっての護送船団司令官、大蔵省の力が急速に衰え、かつ60兆円のセーフティーネットの整備にまだ及ばないエアポケットの中で起きた。「まさか」と誰もが思いつつ、慣れぬ緊急操縦である北海道銀行との合併模索で失速したあげく、三洋証券の行き詰まりに端を発した1997年11月の未曽有の史上の乱気流の中で、あっけなく激突死した。河谷の頭取就任は1994年6月から3年5カ月間。前任の山内から後を託された時から、河合自身、心を決していたようだ。新聞に「頭取内定記事」が流れた日、河谷は親しい部下を飲みに誘って、こう打ち明けている。
「頭取を引き受けてくれと言われた。仕方がないから引き受けるけど、一期2年で辞める。一歩間違えば大変なことになるよ。僕のやることは”終戦処理”なんだ」。実際に、その時点で河谷以外に頭取に適任と目される役員はいなかった。長銀の大野や、日債銀の窪田、東郷と同様、河谷に対する周囲の評価も「本当にいい人」「真面目だった」の声が多い。明るく、前向き、バランス感覚があり、企業人として組織の最後の操縦桿を握る勇気もあった。こうした評価は、たんなる判官びいきばかりではなさそうだ。では、なぜ敗者の道を歩まざるを得なかったのか。決断の誤りか。
ある拓銀OBは、「結局、皆平時の人だったのではないか」とみる。組織内、あるいは外部から、その時点では最適任の人材を選び、危機対応をゆだねた。請われた本人も、周囲の情を無視できず、やるしかないなと自分に言い聞かせた。それなりに自身もあったに違いない。大野木なら長銀のブランドと外資提携を切り札にした野戦の方程式であり、窪田・東郷にすれば、大蔵小・日銀という、かってなら最後の切り札だった。拓銀はどうか。道民から「拓銀さん」と呼ばれ、北海道そのものとほぼ同義語だったその存在の重さ。河谷が漏らした終戦処理の言葉も、破綻を想定したものではなく、最悪の場合は明治以来、北海道を支えてきたこの国が、なんとかするはずとの無意識の思いが絡んでいなかっただろうか。
だが、突き放した言い方をすれば、当時の日本の金融界全体も市場との本物の闘いの経験に乏しかった。足かせの不良債権を抱えながら金融システム全体を戦場から帰還させる「戦時の人材」がそもそも育っていなかった。拓銀マンや道民の多くが期待したはずの政府の北海道支援策も事前には手が回らず、発動されなかった。公的な支え自体がほころびていたのだった。辛うじて体力残る銀行だけがその後、事後的な公的資金のカンフルに支えられ、どうにか次の局面に進む競争を展開しているのが現状なのだ。拓銀の特色は都市銀行でありながら、北海道に強固な地盤を置く地域金融機関でもあった点だ。この二重性がバブルの影響をダブルで被る原因となった。すなわち、都銀最下位行としてバブル期に首都圏などで他行に負けまいと背伸び融資を続けたことと、もう一つは、本州よりワンテンポ遅れて北海道で不動産ブームが起きたことで、二重の深手を負っていた。
SSkの呪縛
拓銀がバブル期に作った不良債権の大半は、「SSKトリオ」が元凶とされる。バブル期の頭取だった鈴木、元副頭取の佐藤、元常務の海道の3人の頭文字をとってこう呼ばれる。彼らが拓銀と二人三脚でバブル期を突っ走ったカブトデコム、ソフィアなどのバブル企業向け不良債権を積み上げたからだ。鈴木は1989年4月に山内に頭取の座を譲るが、SSK体制は以後も続く1990年10月にマッキンゼー、アンド・カンパニーのコンサルタントを受けた「新戦略21世紀ビジョン」がスタート、他行がバブルの反省で業務推進と審査を分離するなか、拓銀も新ビジョンに伴う組織改革で審査部を復活させた。ただ同時に、業務推進と審査一体型の総合開発部も発足させた。そこでカブトなどのバブル企業向けの案件を温存したのだった。
バブル融資の最前線に立った海道は、河谷と同期入行。河谷が組合委員長や企画などのエリートコースを歩いていったのに対して、海道は営業旗。不動産融資でのし上がっていった。鈴木が旗を振り、海道が小型版ブルドーザーとして現場を開拓し、佐藤が行内をまとるパターン。一時は豪快な性格の海道を慕う行員も多く”ミニ海道”が行内でも羽振りを利かせた。頭取の山内の影は薄かった。
『頭取たちの決断』 藤井良広
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