加藤のメモ的日記
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2014年05月14日(水) 患者よ、がんと闘うな ��

人は夢や希望を持つことが大切、とよくいわれます。しかし、ことがんに関してはそれは当てはまりません。いや、むしろ夢や希望を持つことは有害とさえいえるでしょう。なぜならば、夢や希望にすがった結果、体を切り刻まれ、たんなる毒でしかないものを使われてしまうからです。人は必ず死ぬのですから、宇宙の悠久の歴史からみれば、数年や数十年の延命などいかほどの意味もない、どういう医療を受けようが同じことではないか、という見方も可能かもしれません。しかし、一つだけ大きな違いがあります。それは医療の内容にによって、あとで後悔するかしないかが違ってくる、ということです。

私は医療で一番大切なことは、誰ひとりとして後悔しないし後悔させないことだ、と考えています。せっかくよかれと思ってつらい治療を受けたのに、あとで後悔するのでは悲し過ぎるではありませんか。その場合、後悔したのは、現状認識や将来予測と治療の結果とが食い違ったためです。したがって後悔しないためには。がん治療の現状を正確に知り、がんの本質を深く洞察することが必要になるのです。できることとできないことをはっきりさせて人々に知らせるのも、科学としての医学の役割でしょう。

これまで患者や家族が悲嘆にあえいできたについては、がんと闘う、という言葉にも責任があったように思われます。つまりこれまで、闘いだから手術や抗がん剤が必要だ、と考えられてきたわけですが、そのために過酷な治療が行なわれ患者が苦しんできた、という構図があります。しかし考えてみれば、がんは自分の体の一部です。自分の体と闘うという思想や理念に矛盾はないのでしょうか。徹底的に闘えば闘うほど、自分の体を痛めつけ、滅びへの、道を歩むことにはならないでしょうか。また、千葉さんや山川さんなどの様子からも示唆されるように、患者が闘っていると思う相手はがんではなく、実は抗がん剤の副作用や手術の合併症・後遺症と闘っているだけという可能性はないのでしょうか。

前述したように、がんは老化現象ですがそれはいいかえれば”自然現象”ということです。ぞの自然現象に、治療という人為的な働きかけをすれば、体が不自然で不自由なものになってしまうのは当然です。どうやら私たちは、思想や理念の上で、がんと闘うという言葉から脱却すべきところにきているようです。

しかしそれは、がん治療が一切無意味、ということではありません。小児急性白血病など一部のがんは、治すこともできます。モルヒネや放射線などによって、痛みや苦しみをとることもできます。しかし、残念ながら、治療で治せるガンはごく少数なのです。したがって肝心なことは、がん治療に多くを望まない、ということのように思われます。がん治療には最低限、症状をとってもらうことを期待しましょう。他にメリットがありうるとしても、それはおまけ、なくてもともと、と考えるべきでしょう。またそのように腹をくくった方が、専門家にすがって無理な治療をされてしまうより、長生きできることも多いものです。要するに、治らないことを素直に認めないと、長生きもできないし、楽にも死ねないわけです。

がん治療の将来にも、大した夢も希望もありません。しかしそのことを悲観する必要はありません。なぜならば、私たちの人生にとって、がんやがん治療だけが大切なものではないからです。私たちにとって大切なのは、自由に生きる、何ものにも煩わされずに生きる、ということではないでしょうか。そのためには死ぬまで、病から解放される必要があるはずです。もっとも死ぬ直前にはたいてい、何らか具合が悪くなりますから、死ぬまで完全に解放されるというのは無理かもしれません。

しかし他方、病は気からというように、病は自然現象につけられた名称であって、私たちの頭の中や観念のうちにしか存在しない、とみることも可能です。したがってもし私たちが、がんを自然現象として受け入れることができるなら、がんによる死はふつう自然で平和ですから、がんにおいてこそ、病という観念から死ぬまで解放されるのではないでしょうか


『患者よ、がんと闘うな』 近藤 誠


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