加藤のメモ的日記
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| 2013年08月16日(金) |
生きるという航海 �� |
太平洋戦争の真実を検証する
人間の歴史は多様でありゆえに陰陽裏表の意味と価値を持っている。それをある一律な価値観で切ろうとすると往々に大きな誤謬を招きかねぬし、大切な真実が糊塗されかねない。特に戦争という国家間の究極的な関係は、勝敗という結末だけを踏まえると多くの真実を一方的に歪めて定着してしまう。その最たるものは勝者が正しく、敗者が間違いであり悪だという短絡的な歴史の識別である。
例えば先の世界大戦がその前の第一次大戦と異なる歴史的意味合いの最たるものは、あの戦争のおかげでかっての植民地は完全に近く解放されたという事実に違いない。そしてそれは長い間繁栄してきたヨーロッパの近代主義を終焉させた。それは解放された植民地の人々にとっては戦争の価値ともいい得るものだったろう。しかし今日疲弊の一途を辿りつつあるヨーロッパ人にとっては不本意なものにも違いない。
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アジアと日本の関係を考えるとき、いつになってもさきの大戦への謝意の有無が取り沙汰されるのはどうにかならないものだろうか。たとえばベトナム戦争に敗れたアメリカがベトナムに詫びたとは聞いてないし、かってのオランダのベアトリクス女王が初めて来日したとき過去の戦争について総理が一言陳謝すべきだなどという声が自民党の中にもあったが、女王が来日の道すがら200年近く支配収奪し数百人の住民を殺したインドネシアによって過去を詫びたという話も聞いたことがない。
ドイツは第一次大戦で敗戦国になったが、普通の講和条約を締結し賠償を払い、アルザスとロレーヌをフランスに取られたけれども、加えてしきりに謝罪したか?第二次世界大戦後ドイツの首相は世界やヨーロッパにナチスの残虐行為は詫びたが、戦争行為そのものについては謝罪もしていない。例をいちいち挙げたらきりがない。
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健全な肉体は健全な精神に負う
多くの人間は自分の体のありようについてそれを宿命のように受け取っているが、それは肉体に対しての冒瀆でしかない。そうした認識は肉体の形態やその時点での能力とは関係ない。ろくにどう試しもせずに、自分の体の限界について高をくくってしまう人間は宝の持ち持ち腐れで一生不幸でしかないだろう。
肉体的に自分は駄目なのだと信じて動かぬ連中は、受け継いだ農地を耕そうとしない怠惰な農夫のようなものだ。意識という家をとり囲んでいる肉体という農園には、努めれば自分でも思いもかけぬ果実や野菜が必ず実るものなのに。そしてその気になって、そのための種を選んで探し、栽培して育てるのは結局自分一人でしかない。その力を使いきるのも自分だけでしかない。
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「しかし輪廻とはすばらしいノウハウではないか。それを信じられたら、どんな犠牲を恐れることがある」「俺は仏教徒だが、仏陀は自殺の正当化のためにそんな事を教えたんじゃないぞ」笑いはしたが、それには関わりなく外すように「死を予感して生きるということの、本当の意味を説いたのはキリストよりも釈迦だったんだな。キリストは死ぬことを怖れも考えようもしなかった」
『生きるという航海』石原慎太郎
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