加藤のメモ的日記
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2013年07月19日(金) 植物と話がしたい ��

マングローブに撃退されて

人跡未踏のような西表島のマングローブの林で実験を開始したのだが、参加した学生の半数がひどく陽気になり、残りの半数はひどく陰気な精神状態を示し出した。どんな気持ちかをご説明するのは難しく、一種の拒絶反応のようなものが襲ってきて、早くマングローブ林から出たいという気持ちになったとしか答えられない。教授も私も実験を中止しようとは言えず、お互いに終始無言で作業していたのだが、ついに教授は体調が悪いと私にそっと訴えた。この理由が何であったのかはご説明できないが、話を少し前に戻したところから聞いていただきたい。

実は私は西表島は初めてではなかった。それ以前にも石垣島で森重久彌氏との仕事があり、途中の休日に森繁氏が西表島にある友人の墓参りをしたいということから、日帰りで森繁氏のお伴をすることになった。このアルゼンチンの歌手のグラシェラ・スサーナ嬢が出演しており、彼女も観光を兼ねて同行することになった。

石垣島で船をチャーターし、木の葉のように荒海に弄ばれながら、一時間半をかけてやっと西表島に到着した。ところが全員が船を降りてもスサーナは船を降りようとしない。理由を聞くと「気持ちが悪くて降りられない」という。船酔いかと聞くとそうではないという。森繁氏が待っているからと無理に説得して船から降ろしたが、傍で見ているもの気の毒なくらいにフラフラしている。

墓参りをすませて全員で昼食をとったが、もちろんスサーナはジュースも飲まずにテーブルにうつ伏せていた。昼食を終えて船に戻った途端、スサーナは元気を回復し、食事をしなかったからお腹がすいたといって、持ってきた菓子パンをムシャムシャと食べ始めた。私も森繁氏もちょっと唖然としたのだが、ラテン民族の気ままなとことだろうと思って何も言わなかった。

しばらくして彼女は「お墓参りのときに、大勢島の人が身に来ていたね。森繁先生はめったに見られないからねぇ」と言う。私はこれに対して答えに窮した。なぜなら我々一行の他には、島の人は数人しかいなかったからである。何か勘違いしているのかと思い「そんなにいたかい?」と聞くと「たくさんいたじゃないの。神津先生どこを見ていたの」と真剣に言う。

彼女は、墓地の横の土手でたくさんの人が見ていたというのである。私の勘違いかと思って、同行した何人かにそっと確認してみたが、誰もそんな人たちはいなかったと答えた。このことを私は森繁氏には言わなかった。というのは私自身も島に上がって少し体調が悪くなり、軽い船酔いと思って我慢していたが、船に戻ったらケロリと治ってしまったからである。だからこの話はこれ以上は船の中ではしないことにした。石垣島に戻って私はすぐに一番大きな本屋を探し、西表島の歴史が載っている本のすべてを買った。なぜか読んでみたくなったからである。そして私は次のようなことを知った。

西表島の地下に「燃える石」があることを発見したのは、嘉永6年、当地を訪れて地質調査をしたペルリ艦隊であった。これによって明治初年から太平洋戦争終了まで、西表島には60余年にわたって西表炭鉱史がくりひろげられることになる。この炭鉱の規模の大きさと労働の過酷さは、日本炭鉱史の中では類を見ない凄まじいものであったという。

囚人労働力の導入から始まって、日本各地から甘い言葉で集められた人たちが、島に着いた途端に囚人同様の監禁を受け、死ぬまで働かせられるという過酷な強制労働に従事させられた。この島から泳いで逃げることなどは論外であるし、逃亡者がいなければ情報は外部に一切伝わらない。この状態が戦後の閉山まで延々と続いたのである。

西表炭鉱史研究家の三木健氏の『西表炭鉱慨史』の資料を見ても、この炭鉱で死んだ人の数は正確には書かれていない。その理由は記録が一切消されてしまっていることと、事業者や関係者が島の人間ではなかったために、全員が戦後に離島してしまったからだと記されている。それでも食料不足やコレラの流行で大量に死んだ記録や、自殺他殺が連日のように起こっていた記録を見る限り、60年間に死んだ人の数は膨大になるであろう。

しかし慰霊碑はあるのだが、墓はなく、いまだに坑道に埋まっているは数千人と推定されると書かれている。この歴史の事実を知ったからといって、それをスサーナの行動に結びつけるつもりは毛頭ない。歴史の事実とスサーナの行動は、まったく別の次元の出来事と思ったからである。だから今回の実験にしても、三輪教授にも同行する学生スタッフにもこの話はしなかった。



『植物と話がしたい』 


加藤  |MAIL