加藤のメモ的日記
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2013年06月25日(火) 大空襲と原爆は本当に必要だったのか��

連合国の爆撃部隊による地域爆撃が道義に反する罪だと認めることが重要な理由は、大きく分けて二つある。一つは。戦勝国の我々もあの恐ろしい戦争で罪を犯したことを、直視できるようになるためである。その罪はナチズムの罪よりもはるかに規模が小さいが、ナチの犯罪と比較することで、連合国による地域爆撃も非難に値し、道義的に似た部分があることを、不愉快でも考えなければならなくなる。それは、例えばヘンリー・スティムソンが原爆の標的の候補から京都を除外したことよりも、日本軍による悪名高い南京攻撃の方により類似しているのだ。

文明というものは、人々が自己を直視し、ありのままを真実と認めることによってのみ、そこから学ぼうとすることができ、以降は正しい方法で正しい方向へ進めるようになるのである。月並みな言葉だがまさしく真実なのは、過去の問題を整理することは、未来に対する私たちの義務であるというものだ。

もう一つの理由は、過去にしたことを直視しなければ、同じ過ちをおかす恐れがあるということだ。この点を懸念するのには根拠がある。一般市民を保護する国際人道法(1945年のジュネーブ諸条約)の解釈について、最近のアメリカ軍がどう説明するべきか考えてみてほしい。1977年の第一追加議定書により、一般市民および民用物への攻撃は禁止されており、後者に関しては以下のように定義されている。「民用物とは、軍事目標を除くすべてのものである」軍事目標とは「その本質、地理的位置、用途または使用が軍事行動に有効に貢献するもの、また、その徹底的または部分的破壊、奪取または制圧がその時点の状況下において、決定的な軍事的優位をもたらすものである」

だが、米軍マニュアルによれば、その許容範囲は非常に幅広い。「軍事的優位のためには攻撃側の安全などさまざまの考慮を要する…敵の戦闘能力を直接にではなくとも効果的に支援し維持するのは経済的な拠点は、攻撃してもよい」言いかえればアメリカ海軍も空軍も、いまだに第二次世界大戦時の視点で一般市民の士気をとらえ、経済的目標と表現できるものへの攻撃を合法としているのだ。注目すべきは、それが軍事産業ではなく、石油や電力、輸送、水道などより具体的に定義された経済的目標でもないことだ。経済的目標には、あまりにも多くの意味が含まれる。

ジュネーブ諸条約および追加議定書をこのように解釈するのは、第二次世界大戦中の連合国による地域爆撃を道義に反する犯罪として認めるとすれば、許されることではない。道義に反する犯罪と認めるなら、これらの解釈にはるかに厳しい制約が加えられる。だからこそそれが重要になるのである。

連合国による地域爆撃の道義性に関して動かぬ真実を知るためには、それに関連した疑問を投げかけさえすればよい。それは必要だったのか、目的にふさわしかったのか。一般市民は例外なく戦争の前線に立っているというのは、真実なのか。欧米の軍隊が今や、理論上または口先だけでも、プロパガンダのためだけでも「付随被害」を回避するために力を注ぐのはなぜなのか。戦時に一般市民を保護するために1949年にジュネーブ諸条約を締結したのは、また、追加議定書を加えてそれをいっそう明確にしたのはなぜなのか。第二次世界大戦中の連合国による地域爆撃は、連合国が自ら作成したニュルンベルク裁判の原則に合致するのか、連合国による地域爆撃は、国際連合の世界人権宣言を支える信念と調和しうるのか。

1945年以降に、戦時の権利及び合法的な行動に関する宣言や条約が議論されたのは、戦時中にあった甚だしい人権侵害をくり返すまいという決意からだった。こうした議論は戦争の惨事に対する審判として、また、起きた事例の何が許されないかを明らかにするために、その惨事の直後から開始された。これらを考えるにあたっては、当然ながらホロコーストが中心的な位置を占めた。だが、それ以外の残虐行為も対象であり、ジュネーブ第4条約からもわかるように、地域爆撃もそこに含まれた。しかし、地域爆撃を実行した主な国であるイギリスとアメリカは、それを明記することを許さなかった。1949年のジュネーブ諸条約に1977年の第一追加議定書が加えられるまでの歴史は語られないままだった。それでも、その意味は明白である。この議定書は、地域爆撃を振り返って審判し、それを犯罪と見なしたのだ。

地域爆撃についてさらに問い続ければ、当惑が増す一方だ。女性や子供を爆撃するのと、彼らを拳銃で撃ち殺すのとでは、道義の上で違いはあるのか。要するに、爆撃する場合は、相手の姿が見えない、あの女性とあの子供を殺そうと意図するわけではないし、いずれにせよ、相手は防空壕に避難するなどして爆撃を逃れるかもしれないということか。しかし、彼らを壁際に追い詰め、数センチも離れていない場所から銃口を向けた場合は、彼らに逃れる術はない。この状況は、より直接的である。攻撃側の人間に、相手の目が見えるのだ。それこそが違いなのだろうか。高度6.000メートルから殺人を犯す場合には、相手が誰か特定できないからいいのだろうか。

これまで述べてきたことにもとづき、以下の疑問にはこう答えたい。

地域爆撃は必要だったか―必要ではなかった。
目的にふさわしかったか―ふさわしくなかった。

人々の努力により、戦争を抑制し制限する方法として明文化された人道主義の原則に反していたか―反していた。
西洋文明で500年前あるいは、2.000年前から認められて同意されている道義上の一般基準に反していたか―反していた。

由緒ある国家法の規定、すなわち殺人、財産の破壊を違法とする規定に反していたか―反していた。
要するに、地域爆撃は悪いことだったのか―悪いことだった。
非常に悪いことだったのか―非常に悪いことだった。

さらに、我々にとってかなり厄介な疑問がある。我々側の人間に関する疑問である。爆撃隊員は、地域爆撃の実効を拒否すべきだったのか―拒否するべきだった。現実にも、もちろん戦時にもあり得ないことだが、彼らは厳密に産業施設と軍事拠点のみを標的とする任務を要求すべきだった。また避けられない「付随被害」は、彼らの行動が一般市民にもたらす影響として容認できる最悪のものとなるべきだった。彼らの多くは、いずれにせよ自分がしているのはまさにそういうことだと考えたか、無理やり考えようとしただろう。また、通常はそのように教えられており、中には心理的に自分を守るためにそう思い込むことを選んだものもいただろう。

だが、自分のしていることを充分に自覚し、それを甘受し、密かに苦しみ、後悔したものも多かったのである。しかし、戦時には敵を憎むように教えられるものであり、第二次世界大戦中の連合国の爆撃隊員は、当然ながら敵国を悪者と信じていた。爆撃機集団と太平洋戦域のアメリカ陸軍航空軍の乗務員は、一般市民を標的とする地域爆撃について、社会と上官のほとんどから支持されていた。そして、彼らはその両方を必要とした。また、自分が正当な戦争を戦っている。―これは本当だった―という確信を必要とした。それによって勇気を得て、出撃し、後の平和な時代にどう言われようと、非常に危険なことは間違いない任務を遂行したのだ。



『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 A・C・グレイリング


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