加藤のメモ的日記
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| 2013年06月23日(日) |
大空襲と原爆は本当に必要だったのか�� |
連合国の絨毯(じゅうたん)爆撃とか集中爆撃、抹殺爆撃、大量爆撃などと呼ばれる地域爆撃の道義性を問えば深刻な論争になり、激しい感情をかきたてる。こうした戦争中に始まっていた論議は、連合国の爆撃作戦を公然と擁護する意見と、公然と非難する意見とがあり、前者の方が圧倒的多数である。そのどちらにも属さない人々は、「この問題は難し過ぎるから、哲学者に議論させるべきだ」と言う。その言葉を受けて立とうというのが本書である。
最初に二つのことをはっきりさせておかなければならない。第一に、第二次世界大戦における連合国の爆撃が、同義的に見て完全に、または部分的に間違っていたとしても、道義に反する残虐行為としての規範は、ヨーロッパのユダヤ人対するホロコーストや、ナチと日本の侵略によって世界中で行なわれた殺戮と破壊により、全体で2.500万人もの人々が殺されたことには遠く及ばない。
ドイツと日本の一般市民を意図的に攻撃目標とした連合国の爆撃で殺されたのは、民間の成人男女と子供を合わせておよそ80万人だった。侵略者である枢軸国に対する爆撃は、彼らの戦争遂行能力と意志を弱めることが目的だった。一方、600万人のユダヤ人の殺害は、人種主義による大量殺りく行為だった。この二つの間には、非常に大きな違いがある。
しかし、連合国が爆撃作戦で本当に道義的な間違いを犯していたなら、その間違いが枢軸国の犯した間違いの重大さに遠く及ばなかったとしても、それによって間違いでなくなるということはない。連合国の爆撃による一般市民の死者80万人という数字は、そのほとんどすべてが市街地への意図的な無差別爆撃だったが、それ自体が驚異的である、しかも、負傷した精神的な打撃を受けたり家を失ったりした人々は、多くの点で死者より苦しんだにもかかわらず、この数字に含まれていないのだ。
この問題を巡る議論は、連合国が行なった不道徳な行為を枢軸国のそれとを比較することによって論点が曖昧になることが多い。そうした比較では、必ず連合国に有利な結論が出され、問題は結局そのままになってしまう。比較すれば、問題が解決するとでもいうように。だが、そうではない。そうではないからこそ、この問題に立ち返り、解決しなければならないのだ。
しかし、本書の主張を修正主義とみなすのは間違っている。ドイツと日本の一般市民も悪い行いに苦しめられたと結論づけるとしても、ナチズムとその恐ろしい残虐行為や日本の軍国主義と侵略を弁護するわけではない。第二次世界大戦についてはすでに十分な検討を重ねてきたので、私たちはこの二つの違いを見分けられるはずだ。ナチズムに対する修正主義者の弁解は受け入れられないし、ナチ時代の多数のドイツ人、おそらくはその大部分が、ヒトラーの行動の大半を支持していたことは認めなければならない。それゆえ枢軸国の一般市民は当然の報いを受けただけであり、連合国が悪いことをしたかどうかと思い悩むのは時間の無駄だと多くの人が考えている。
だが、繰り返すが、そういう考えでは問題は解決しない。無防備のユダヤ人を穴に入れて機関銃で撃ち殺したSS隊員は、その犯罪のために死刑に値する。だが、普段はたとえは会計士として働いている一般市民が、腕を伸ばしてヒトラーに敬礼し、彼の政策を承認しても、その行動のために爆撃で処刑されるには値しないだろう。
そして、SS隊員は処刑される前に身元を確認され起訴されただろうが、ナチを支持した会計士は民間の防空壕の中で死んだかも知れず、その横で、ヒトラーを嫌い、ナチの戦争を支持しなかった人も死んだかもしれないのだ。だから、たとえ前者がナチズムを支持したという事実のみで死に値したとしても、その横にいた人の死は、あまりにも高い代償だっただろう。いずれにせよ、こうした思考は問題の重要な点ではない。連合国が、枢軸国の大規模な悪事にそれより小さい悪事で対抗したのだとしても、連合国の悪事が悪事であることに変わりはないのである。
それでも、ここで微妙な違いを考慮しなければならない。公正を帰するために、こう問わねばならないのだ。より大規模な悪事に対抗するために行なわれた連合国の悪事は、確かに悪事だったとしても、どうしても避けられない状況に置かれたためではないか?正当化や罪の軽減が必要なら、それを訴えることができるのではないか?なぜなら、次のことを忘れてはならないからだ。すなわち、人を殺すのは悪いことだが、殺されそうになった人が自分の身や家族を守るために相手を殺した場合は、少なくともその状況が考慮されるという点である。したがって、問題の全体像をとらえた後、この点も検討しなければならない。
もう一つ、是非ともはっきりさせておかねばならない点がある。連合国の地域爆撃機の道義性を問うのは、ナチス支配下のヨーロッパに対する爆撃任務を遂行したイギリス空軍とアメリカ陸軍航空軍の男たちの勇気と犠牲に疑義をさしはさむためではない。連合国の爆撃作戦の道義性を批判したり、あるいは単に論じたりするだけで、彼ら乗務員たちの貢献に異議を唱えているとみなされることが多い。邪悪で危険な侵略に対する正義の戦いであり、必要な戦いだったあの戦争で、彼らは尊い犠牲を払ったのに、それをおとしめようとしていると解釈されることが多いのだ。
本書のいかなる記述も、それら軍人たちの勇敢な行為をおとしめるものと解釈すべきではない。敵地の空へと飛び込み、機関銃や高射砲による攻撃を受け、戦友の乗った飛行機が炎上しながら落ちていくのを目の当たりにし、生還の可能性が低いことを知りつつ任務を遂行するために、敵地の上空へ何十回も襲撃するのがどれほど大変なことかは、容易に想像できる。それでもやはり、そうした勇気を必要とする行為が結局は間違った行ないだったなら、勇気を持って行なった行為だからといって、間違っていたという事実が変わるわけではない。
この論理は、歴史学者が1939年から1945年の爆撃戦を論じるとき、その道義性を問おうとしない姿勢に暗黙のうちに示されることが多い。道義性を問うのは操縦士や砲手や航空士や爆撃手に対する不当な仕打ちだ。戦争を仕掛け、抑圧によって世界を脅かした敵を相手に、彼らは命をかけて戦ったのだからと歴史学者はいう。
こうした弁護をしばしば支えるさらなる根拠がある。当時は、一般市民を爆撃するのが間違っていると考える人が多数ではなかったのだ。英米両国の多くの国民が一般市民への爆撃を支持し、枢軸国がそのような報酬と処罰を受けるのは当然だと考えていた。従って、連合国の爆撃機の乗員たちは、政府と最高司令部からの明確な指令に加え、国民の支持も受けて行動したのだ。
1945年にドイツ国内の強制収容所が解放された時、ドイツ人に対する人々の怒りは一層激しくなった。その結果、連合国の国民は破壊しつくされたドイツの市街地のニュース映像を見て、ドイツが世界に戦争を仕掛けその国民が恐ろしい非人道的行為をはたらいたのだから、罰せられて当然だと考えるようになった。つまり、爆撃機に乗り込んでナチ支配下のヨーロッパの危険な空へと出撃した乗員たちは、自分は正義の戦争を戦っているという信念―それは真実だった―と、自分自身に恥じないやり方で戦っているという、これも真実である信念によって鼓舞されていた。
戦争が終わったあと、しかも彼らが立ち向かった危険にまったく直面せずにすんだ人々から、道義に反する犯罪に加担したといわれ、のちの国際法に照らして法的な犯罪にも加担したといわれれば、受け入れ難い侮蔑と感じるのが当然である。本書は、第二次世界大戦でヨーロッパをおおう危険のただ中に飛び込んでいった人々を、そのように侮蔑しようとするものではない。
『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』 A・C・グレイリング
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