加藤のメモ的日記
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2013年06月18日(火) 世界を揺るがした10年��

湾岸戦争とブッシュ親子の戦略

ベルリンの壁崩壊は、第二次世界大戦後の世界史に最も大きな衝撃を与えた事件である。文字通り世界が変わる歴史的瞬間だった。この瞬間から「世界を揺るがす10年」がスタートし、激震をもたらす。ドイツ統一から東ヨーロッパ圏の共産主義体制崩壊、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大、湾岸戦争、ユーゴスラヴィア内戦を経て、ソ連が瓦解した。これらの大事件はいずれもベルリンの壁崩壊2年のうちに発生した。雪崩を打ったような激変だった。

ベルリンの壁だけでなく、実は「世界の壁」そのものが崩壊し始めたのである。壁が崩壊するということは国境がなくなり、ボーダーレスになるということである。我々日本人の国境意識は鮮明ではない。ヨーロッパやアジアなど大陸諸国にとって、国境とは何百万、何千万という同胞の墓標が築いた命綱のようなものである。国境の外へ一歩踏み出すと命を落とすのは、日常的な出来事だった。一本の国境線が無数の人々の運命を裁断した。その国境がなくなる…。

ベルリンの壁崩壊を受け、ドイツ情勢を取材するためボン支局に赴任することが内定した時、イラク軍がクエートに侵攻した。1990年7月末のことである。なぜイラクは侵攻したのか?イラクはイランとの8年に及ぶ戦争で疲弊しきった国力を回復するため、クウェートの石油資源を奪取しようとしたのである。

侵攻の一つの引き金になったのがベルリンの壁崩壊だった、と私は考えている。ベルリンの壁崩壊は、国境の人為的な設定に対する諸民族の反抗を誘発し、スラブ世界を中心とする国際社会に解体と分離の遠心力を生んだ。「国境は永久に固定したものではなく、変更が可能なんだ」という意識が諸民族のアイデンティティーを呼び覚ました。湾岸戦争におけるイラクのクウェート侵攻も、うがった見方をすれば、サダム・フセイン大統領が冷戦終結の流れを見て「国境線をもう一度、自分で引き直しても問題ないだろう」と踏んだ面がなかったとはいえない。

湾岸戦争は全世界を巻き込み、1991年3月3日に多国籍軍の勝利で幕を閉じた。しかしフセイン大統領は湾岸戦争で負けてもしぶとく生き延び、ブッシュ米大統領に地団駄を踏ませた。ブッシュは「腰ぬけ」「弱腰」と非難を浴び、結局、クリントンに敗れて大統領の座からも追われた。だが、因果は巡り、そのブッシュ大統領の息子の二代目ブッシュ大統領から2003年に戦争を仕掛けられて、フセイン政権は崩壊した。フセインは2004年、農家の軒先の地下壕に隠れているところを発見され、拘束された。フセイン政権の攻防も、20世紀末から21世紀にかけての世界の大転換と重なっている。

イラクや北朝鮮を「ならず者国家」と呼んで敵視した二代目、ジョージ・Wブッシュ大統領もイラク戦争後、戦争の大儀だった核査察に絡む偽証やイラク人捕虜への虐待で窮地に追い込まれた。マイケル・ムーア監督の話題の映画「華氏911」でも、こっぴどくからかわれた。しかし2004年末の大統領選でケリー候補に辛勝、北朝鮮やイランなどの「圧政国家」打倒に燃えている。息子のブッシュは湾岸戦争における父ブッシュの「弱腰」への反省から、危険な「強いアメリカ」論をより強く打ち出すようになった。ソ連崩壊後の一極支配体制の矛盾がブッシュ政権の世界戦略に現れている。

疾風怒濤のグローバル時代へ

ベルリンの壁崩壊は、米ソによる冷戦構造の維持がコスト的に限界に来た時、引き起こされたものである。第二次政界大戦後、半世紀近くにわたって築き上げられた世界経済の土台は疲弊していた。ミリタリーパワー、ゲームの上で展開されてきた世界経済の矛盾は極限に達していた。とりわけソ連の経済が危機的だった。このまま米国と軍備拡張競争をしていては自滅する。その危機感が共産圏の結束を緩め、壁崩壊へつながった。量的な変化の積み重ねがこの一点で質的変化を生み、世界史の転換をもたらした。

偶然の要素も働いたが、現象そのものは歴史的必然である。先に触れたように、冷戦に突入する前、西ヨーロッパと東ヨーロッパをつなぎとめようとする最後の試みは1947年のマーシャルプランだった。しかし、ソ連が東ヨーロッパ諸国の参加を禁じたため挫折した。西側世界、とくに西ドイツは東からの逃亡者らが流れ込み、居住地の建設や雇用創出に追われた。

東側世界はソ連化が進んだ。冷戦構造の定着とともに、東西ヨーロッパ間の経済交流は薄れた。せいぜい個人間の結びつきや援助に限られた。旅行も長い間、規制された。東西間の壁は厚く高かった。その裏側でヨーロッパの植民地帝国が崩れ、世界文化の脱ヨーロッパへの忠誠を捨てた。最初にヨーロッパ離れを起こしたのはインドと中国である。アラブ、アフリカ諸国の独立はもっと時間がかかった。最後は中南米諸国。北米との闘争過程でアイデンティティーを取り戻し始めたのは、1970年代以降である。

冷戦終結の下地となったのは、ヨーロッパ共同体(EU)の経済統合である。EUは経済統合の成功によってヨーロッパ硬化症から立ち直り、ソ連を刺激した。ゴルバチョフは「このままではヨーロッパの繁栄から取り残される」と危機感を抱き、ペレストロイカ政策を打ち出した。これが東西交流を促すきっかけとなり、ベルリンの壁崩壊へとつながったのだった。だが、その底にはもっと大きなエネルギーの始動があった。

1989年以降の10年間で世界は激変した。冷戦の終結によって「閉じられた世界」は「開かれた世界」となった。世界の政治地図は大きく塗り替えられ、世界経済のパラダイムも転換した。中・東ヨーロッパ諸国の経済改革とEUへの接近、ロシアと中国の世界経済への参入、南米諸国の復活、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策の撤廃。これらを後押しした根源的なエネルギーは同じものである。このエネルギーが競争激化を生み、壁を突き崩した。グローバリゼーションである。

グローバリゼーションとは一言でいえば、経済、政治、社会、文化が地球規模で融合するボーダレス現象である。「国際経済」が国民国家時代の概念とすれば、「地球経済」と呼んだ方が適切な、そういう新しい次元に入っている。ベルリンの壁崩壊の前に起きた中国の天安門事件もこうした流れの一環だった。1998年5月下旬にはインドネシアのスハルト体制が崩壊した。民主化を求める声を無視し続けてきた32年に及ぶ開発独裁体制の足場を突き崩したのもグローバリゼーションだった。巨大なうねりとなった市場経済の力が大統領一族の利権を守ってきた規制の壁を押し倒したのである。

つまり、グローバル化によって東西の壁が崩れ、東西の壁崩壊でグローバル化かが加速した。それのベルリン封鎖に対抗し、米国などが1948〜49年に実施した「ベルリン空輸作戦」の50周年式典が1998年5月、ベルリンで開かれた。席上、ビル・クリントン米大統領は「共産圏が恐怖と不安という手段で戦おうとしたのに対し、我々は友情と確信という手段で対抗した。空輸作戦は自由を望むすべての人間の勝利だった。だが、自由への戦いはまだ終わっていない」と演説、自由世界の一層の拡大を訴えた。

グローバル化とは自由化である。自由化で国境がなくなる中、経済ブロック化が進むという一見矛盾した現象も起きている。世界経済戦争の中で生き残っていくには、地域が共同戦線を張り、対抗するしかないからである。地域経済は、200年前の産業革命にも匹敵する構造変化の時代に入った。構造変化の磁場から誕生したのがユーロである。20世紀ヨーロッパの総決算ともいえるユーロの導入は、ベルリンの壁がなくなったことによって早まったのである。壁が崩れなかったら、そしてドイツが統一されなかったら、導入は10年後、あるいは20年後になったかもしれない。そこにユーロの世界史的意味が暗示されている。政治的にも、経済的にも、ユーロは21世紀世界の新しいパラダイムを占う試金石だった。



『世界を揺るがした10年』山本武信


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