加藤のメモ的日記
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のどかなる無人の街
福島県・川内村の山の上に福島第一原発が見渡せる場所があるという。おそらくそこが現在唯一のビューポイントだろうと聞いたので行ってみることにした。案内役を買って出てくれたのが、本誌の野田記者である。彼方に青い空と太平洋。波打ち際の手前には浜通りの大熊町の家並みが並ぶ。そこが放射能物質に汚染された無人の街だとは信じられない。のどかな光景である。 「ほら、あそこですよ」野田さんが指さす方に目を凝らすと、海岸線に原子炉建屋がみえた。しかし直線距離では13�勸幣緡イ譴討い襪�ら、マッチ箱よりも小さくて細部は何もわからない。
それより私は前庭の真ん中にドカンとおかれた青い大型土嚢袋が気になった。一袋が1�短擁�ぐらいの大きさで、十数個あった。どの袋にも「H24・11月28日作業」と書かれ、線量が記されている。3.52μ㏜(マイクロシーベルト)4.33μ㏜、3.71μ㏜、……7.06μ㏜と突出して高い袋をもあった。そうか、それでわかった。2週間ほど前に除染作業が行なわれたのだ。敷地の表土や草木がこの土嚢袋に詰め込まれたのである。ちなみにどれくらいい空間線量が下がったのかと線量計で計ってみたら0.49μ㏜だった。都心の約10倍、福島駅前の約2倍である。国が定めた被ばく線量の上限値0.23μ㏜を軽く上回っている。これではまだ人は住めない。妊婦や子供は近寄れない。
このログハウスの持ち主は、佐藤さん(68歳)7年前まで地元の小学校の校長を務めていた。つい1週間ほど前に静岡県に転居したばかりだった。電話で本人の声を聞いた。「へえー、7μ㏜もあった?雨どいに詰まった葉っぱか何かにセシウムが凝着したんだろうね。あの山小屋をつくるのは、私の20年がかりの夢だったんだよ。学校を退職したら、あそこで注文家具をつくりながら子供たちを集めて自然塾を開こうとコツコツ頑張って、その夢をやっと実現できたと思ったら、原発にすべてを台無しにされた。この悔しさは被災した者でないとわからんだろう」
佐藤さんがログハウスを建てたのは11年前のことだ。2005年に定年退職して、その翌年から子供たちを10人ほど集めて、月に1度、自然の中で生きる基本的な知識を教える塾を開いた。周囲の森で子供たちと一緒にキノコやタラの芽、ウドなどを取り、モミジイチゴの黄色い実を採って食べた。イワナ釣りや崖登り、原生林の歩き方も教えた。
「それもこれもできなくなってしまった。いくら除染したからといっても、敷地とその周辺をやっただけだからね。それで1μ㏜が0.5μ㏜に減ったところで何の意味もない。1か月もすればまた1μ㏜に逆戻りするよ。だって周囲の森は汚染されたままだもの。そんなところに子供たちを呼べるようになるわけがない」佐藤さんの言う通りだ。ピンポイントの除染をしても意味がない。いずれは周囲の森から汚染水が流れ込み、汚染された枯葉が舞い込んできて、元の木阿弥になる。政府の除染計画は言い訳づくりのためとしか思えない。
私の野田さんは川内村の山を下り、浜通りの楢葉町に行った。楢葉町は今年8月、「避難指示解除準備区域」に指定され、日中だけ立ち入りができるようになった。現在、1日当たり最大2000人の作業員が入って、町中の至る所で除染作業にあたっている。政府の計画では2014年3月までに全町の除染を終えることになっているが、楢葉町放射線対策課の松本課長も見通しはかなり悲観的だ。「確かに、町の南部では国の基準値の0.23μ㏜をすでに下回っているところありますよ。だけど北部の私の自宅周辺では3〜4μ㏜もあるんですよ。それを除染で半減させたとしても1.5〜2μ㏜にしかならないでしょう。仮に2回、3回と除染を繰り返しても、まだ基準値を上回る計算になるんです。こんな状態では町民全員が帰還できるようになるまではいったいどのくらいの時間がかかるのか、正直言ってわかりません」
その北部に行くと、大谷石の塀が倒れ、屋根や壁が痛んだまま放置された家が目立つ。田畑や空き地は高さ2mほどに伸びたセイタカアワダチソウやススキに埋め尽くされ、人の姿も稀にしか見られない。千葉県の避難先から家の様子を見に来たという女性(48歳)はこう話してくれた。「もうここに帰ることはないのだと頭でわかっているつもりでも、どうしても悲しくなるし東電を恨んでしまう。いくら除染しても限度があって、元通りにならないのだから、もう人は戻ってきません。それぞれの生活する場所も変わってしまったしね。住めない場所を除染するより、そのお金を別の形で活用してもらいたい。大きな声ではいえないけれど、除染作業に雇われている人達だって元通りになると本気で考えている人はいないと思う。みんな生きていくためにパートでも除染でも何でもするんですよ」
たまたま通りかかった楢葉北小学校の無人の校庭には雑草が伸び、校舎の正面の大時計の針は震災が発生した午後2時46分のの3分後を指して止まっていた。ガラス越しに校長室をのぞくと、壁に歴代校長の写真が額ごとはずれて落ちていた。隣の職員室の黒板も2011ねん3月11日金曜日の予定が書かれたままだ。あの地震が起きた瞬間から時間が凍りついてしまったかのようだ。全児童約280人ははあれから全国に散り散りになった。2度とここには戻れないかもしれない。故郷をなくした子供たちの痛みが私の心に沁みた。
『週刊現代』1.5
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