加藤のメモ的日記
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78歳の三浦は再来年、3度目のエベレスト登頂を目指す。彼は週に数度、東京の街をトレーニングで歩く。背中に20kg、両脚にそれぞれ4kgのおもりをつけたその姿は、ここが街の真ん中であることを思えば、なかなか目立つものがあった。「エベレストに登るわけだから、これくらいやらないと。富士山の頂上に登ると、人は生理学的には自分の年齢プラス70歳の状態になるというんです」そういって彼は「はっはっはっは」と快活に笑った。
70歳と75歳の時にはエベレストの頂上を極めた三浦はいま、再来年の80歳での登頂を目指して準備を進めている。成功すれば、現在の記録を4歳上回る世界最高齢の快挙となる。登頂予定は5月中旬というから、2年近く先だ。その間、今年10月から11月にかけてヒマラヤのメラピーク(標高6654m)に登り、富士山などでトレーニングに励む。
来年には7000m級の山に登頂する予定だ。おもりを背負って進む三浦の歩みはそれほど速くはなかった。ゆっくりと着実に自分のペースを守り、それを崩さない。一定の間隔で息を肺の奥まで吸い込み、口をとがらせて「ふー」と吐きだすのが印象的だ。「どうせ山は逃げないですからね。自分の年齢のペースでゆっくりゆっくり」
このトレ−ニングは時間もコースも決まっていないという。明治神宮への参拝客や近所の幼稚園の先生が「三浦さ〜ん」と明るく声をかけてくる。「気分次第で進みたいほうへ進むだけ」声援を受けながらにこやかに語ったその言葉は、まるで彼が自らの生き方そのものを語っているようにも聞こえるのだった。
事務所には低酸素室もあります。最高で標高6500m程度の酸素にできるので、エベレストに登る2ヶ月前に入って徐々に体を慣らしていく。その中で歩き、一番眠るんです。とてもキツいけれど、ものすごいトレーニングになります」三浦には、「人生には何よりもまず目標が必要だ」という信念がある。それは彼の生き方を支える基本的な哲学とも言えるもので、70歳を超えてからエベレストへの登頂を目指したのも、1度では満足せずに2度目、3度目の登頂に挑むのも同じ理由からだ。
1932年10月に青森県に生まれた三浦は、営林局に勤めながら山岳スキーヤーとして活躍した父親・敬三氏の影響で、3歳のころからスキーを始めた。北海道大学獣医学部を卒業後、同大学で助手として働いていたが、アルペン競技でのオリンピック出場を目指すために辞職した。しかし青森県の選手権大会の閉会式で「日本人は世界で勝てない」と五輪出場選手を絞ったスキー連盟と対立し、アマチュア資格をはく奪された経験を持つ。
その時、オリンピック出場への夢を断たれたことが、後の彼の人生を大きく変えることになった。「その後、僕はプロスキーの世界に入るのですが、そこでは若い選手たちが次々に現れる。いつまでたっても一番になれないのは明らかでした。そこでスキーを使って人のやらなかったことをやろうと考えたんです。それがスピードの世界記録樹立(当時、172.084��/h)や、富士山での直滑降などへの挑戦でした。
飲んで食べてのメタボ生活からエベレストへ
例えば1970年、37歳でエベレストからの滑降に挑戦した時のことだ。三浦が行った山からの滑降はパラシュートを利用する。山頂近くから滑りはじめると同時に直径5mのパラシュートを開き、風の抵抗を受けながら時速約80�劼魄飮�する。この挑戦でも標高8000mからの速度を調整しつつ一気にに滑り降りようとした。ところが空気が平地の3分の1しかない高地では、何もかもが練習の時とは違っていたという。
「無風の状態でもジャンプしたら、普通は空気の抵抗がある。それが何か真空の中に吸い込まれるような感じなんです。下かか抵抗を受けなければ後ろに引っ張られ、それがなければ前にストンと一気に落ちる感覚。そんな中、クレバスまであと800mくらいのところで転倒したんです。地面は固い氷で覆われていた。スキー板が前足から外れ、なすすべなく滑り落ちながら「もう助からない」と思った。ところが、その最中に自分でも想像していなかった気持ちを、胸の裡で確かに感じたと彼は振り返る。
「変な話ですが、空から誰かに見られているような感覚で、『3000年、3万年、3億年経ったら自分はどこの星で何をしているんだろう』と妙な好奇心がわいてきたんです。不思議なことに恐怖心は全くありませんでした」大きな岩で一度飛び跳ねると、50m滑り落ちたところで体が止まった。もうもうと上がる雪煙が消え、しばらくして生きていることを実感すると、「ああ、もう一度人間の姿で劇場に帰ってきて、三浦雄一郎という役をやるんだ」と胸の奥で呟いたという。
『週刊現代』
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