加藤のメモ的日記
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| 2011年02月28日(月) |
戦場の兵士たち(14) |
戦は終わったが、日本人捕虜、逃亡に失敗して銃殺に
敗戦。ソ連は米麦やらレールや枕木まで、満州(現・中国東北部)のありとあらゆる物資をハルビン郊外にかき集め、我々日本人捕虜を使ってソ連の貨物列車に積み替え、ソ連に搬入した。その作業に従事したのは100人ほどでした。元日本人小学校と思われる廃屋のコンクリート床に敷き物を敷き、食料はコーリャンとトウモロコシ。石油缶を鍋がわりにして飢えをしのいだ。
夜昼となく物資が入ってくると自動小銃を持った監視兵に「仕事、早くやれ」と追い立てられた。そんなある日、退院患者という二人が仲間入りした。そのうちの一人が逃亡に失敗して捕まり、翌日見せしめのために全員の前で銃殺するというふれがあった。拳銃を持った将校に連れられて出てくる。沈黙。こめかみに一発、朱に染まって倒れる。遺骸は庭隅のゴミ捨て場のゴミをかき上げ放りこむ。どこの誰だか知る由もない。恐らく戦時死亡宣告で、葬られてしまったのだろう。今もその情景を忘れることができない。
零戦で被弾し、捕虜で終戦を迎える
昭和19年6月18日、海軍の零戦搭乗員だった私は、米機動艦隊攻撃の帰路、サイパン島上空で対空砲火で被弾し、火に包まれた。急降下する愛機を操縦してアスリート基地に着陸、風防ガラスを拳銃でたたき割って気概に脱出した。基地はすでに敵手に落ちていて捕まった。全身大やけどでハワイの米海軍病院に収容されたが、9回の手術を受けて歩行も可能になった。
病室では通訳をした、20年8月14日早朝、顔見知りの海兵隊員に起こされた。彼は気の毒そうに小声で「ウオーイズオーバー。ジャパンサイレンダード」と言った。直ちに私は周囲の日本兵の捕虜たちを大声で起こした。彼らに「今この隊員が『戦争は終わった、日本は降伏した』と言ってきた。本当に終わったようだぞ」と説明した。皆、物思いに沈んでいった。私はその後1年4カ月をハワイの収容所で過ごし、昭和21年12月、日本に送還されたのだった。
街頭埋め延々、被災者の群れ
昭和20年3月10日に家を失った私の家族5人は、11日早朝、奥州街道を通り栃木県の父の実家を頼って行くことにした。父が運送業をしていた関係から、小さなオート三輪で運んでもらえることになった。着の身着のままで荷物の少ない5人だったが、それでも荷台は狭かった。奥州街道に入ったとたん、私たちが幸せであることを痛感する光景が目に入ってきた。
被災者の大群が、歩道いっぱい広がって歩いていたのだ。目の届く限りの街道を被災者たちは、わずかな手荷物を下げるか、手ぶらでとぼとぼ歩いていた。リヤカーや大八車を引いている人もいたがわずかだった。焼け焦げのある防空頭巾をかぶっている人、幼い子の手を引いている人、目をやられた人、道端に座っている人。だが、助けている沿道の住民の姿はなかった。
その光景は、その後写真で見た世界の難民のどれにも劣らず悲惨なものだった。追い抜くのに苦労しながら私たちのオート三輪は進んだ。被災者の歩く列は、栃木県の小山で私たちが街道を離れるまで絶えることはなかった。その後も見渡す限り続いていた。
その日を境に街の状況一変
玉音放送といっても若い人にはピンとこないのではないだろうか。私たちの子供の頃は天皇陛下のお声を聞くこともなく、ニュース映画でお姿が映し出される時は字幕に「脱帽」の文字が流れ、守らないと不敬罪に問われると言われた。そのような時代に私は、今の北朝鮮の�募亰鎧蔑疉瑤坊蛎阿箸靴洞个瓩討い拭�8月15日はソ連軍が清津港に上陸したという情報が入って4、5日たった頃だったと思う。「重大放送があるので全員ラジオの前に来るように」と伝達があった。
電話の交換任務についていた私を残して、皆そちらのほうに行ってしまった。一人で不安になった私は、まさか終戦の玉音放送とは思わなかった。耳に書けたレシーバーは雑音がひどく天皇陛下のお声とは思っても意味がわからなかった。その後が大変だった。司令官を始め士官や兵隊は前線に出動していいて残っているのは、少数の軍人と女子通信手だけで心細いことこのうえなかった。
その日を境に状況は一変した。街にはチマ・チョゴリの女性の姿がみられ、日本人はひっそりと隠れ住み、女性はソ連兵から身を守るために夜は床下や山に隠れた。日本に引き揚げてからテレビ放送が始まり、玉音放送を聞く場面があったけど、一番印象に残っているのは宮城前の広場で地面に座り込み、泣き伏している姿だった。
生への執念で4年間を生き抜く
私は昭和20年の夏、旧満州(現・中国東北部)牡丹江市の輜重兵幹部教育隊で訓練中、8月9日のソ連軍侵攻に遭い、捕虜となってバイカル湖はるか西のタイシェト地区に送られた。そしてその冬、翌春までに近接の二つの収容所で、2000人中600余人が栄養失調や発疹チフスで死んだ。私たちは度々、凍りついた屍をソリに山と積み、近くの丘の上に運んで捨てた。凍土は硬く、申し訳程度に雪をかきわけて埋めた。墓標などはなかった。
4月ごろから、タイシェトの奥地を作業隊ごとに移動しながら働いた。第二シベリア鉄道建設のための準備作業で、伐採、建築、橋梁作業、採石など休みなしに働いた。冬、零下30度以下は作業中止と聞いたが、守られているとは思えなかった。特に採石作業は毎日が地獄だった。山から掘り起こした石をハンマーで、抱えられるほどの大きさに割るのである。一振りごとに息をつく始末であった。一人2平方メートルのノルマなど到底できるものではなかった。そして時折入ってくる貨車への積み込み出は死ぬ思いがした。帰還して、私たちがいたところが「地獄のタイシェト」と呼ばれていることを初めて知った。
「ノルマ」は抑留者が持ち帰ったロシア語
ノルマとは決められた目標の達成をさすロシア語である。今は日常の生活用語として定着しているが、地獄のシベリアから私たち抑留者が日本に持ち帰ったロシア語であることは、あまり知られていないようだ。敗戦と同時に、旧満州(現・中国東北部)の日本人、軍属64万人と満蒙開拓青少年義勇軍を含む日本男子を、旧ソ連は「男狩り」して、ソ連の戦後復興のためにシベリアに強制連行した数は70万人以上といわれている。
夏服で連行された日本人に、零下30度〜50度の冬があっという間に来て、最初の冬は日本人の誰もが経験したことのない極寒、飢餓、重労働、疫病でドミノ倒しのように死に、ソ連は死亡者名簿の作成を厳禁し、帳簿上死亡者ゼロの無謀な扱いを強要した。これに追い打ちをかけたのが「ノルマ」であり、ノルマ未達成者は営倉刑や食べ物を減らされるなどの非人間的な扱いを受けたのである。飢餓状態の中でノルマに苦しめられ、望郷の願いも空しく、ノルマを呪って死んでいった多くの戦友を思うと、生きて帰ってきた日本人の一人として「ノルマ」の言葉の重みを伝えたい。
引き揚げ船を助けた米国船
シベリア抑留というけれど、私はその延長上の、当時ソ連の衛星国であったモンゴル抑留であった。横綱・朝青龍関で知られるウランバートルである。そこで国立大学の建設作業に1年半余り、従事させられた。年間、雪を見ないのは7月と8月の2カ月で、とにかく年中寒いという印象が強い。零下30度、ないし40度という極寒の中での屋外溝掘り作業など、今思い出してもゾッとする。8時間労働といいながら、その実、ノルマを達成するまでの長時間労働が強制された。食べ物は、朝夕はほとんど水分だけの雑炊、昼は黒パン少々という常に体力維持困難な、空腹の連続であった。
1万2千人余りがモンゴルに抑留され、そのうち1600余人が力尽きて死んでいった。革命児スフバートルの騎馬像(抑留者が建てた)がある中央広場周辺にある政府関係の庁舎や、モンゴル大学、その他多くの建築物は日本人の手によるものが多い。モンゴル向上発展に大いに貢献してきたというべきである。それにしても、あの過酷な労働の証明書さえ、いまだ発給されていない。
『戦場体験』
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