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2005年07月27日(水) ■ |
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「それぞれの『戦争論』」 川田忠明 |
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「それぞれの『戦争論』」唯学書房 川田忠明 先日ね著者の講演を聞く機会があった。川田氏が平和運動にかかわったのは、大学時代、原水爆禁止世界大会に初めて行って被爆者の話を聞いたとき、ショックを受けたのがきっかけであったという。「知識と実際に体験した人の話の間には大きなギャップがある」 この本を作る時、小林よしのりの『戦争論』が念頭にあったという。「結論は同であれ、その出発点には肯くことが出来るところがある。小林氏は知識で反戦を唱えるものを批判している、戦争をしたものは人生を賭けて命がけで戦ったんだと。若者は(こいつ真剣にものを言っている)と捉えたのではないか。」私は別の面からアプローチしてみようと思う。戦争の加害者、被害者の生の声を載せて、戦争の実態を両方の目から見てみよう。その上で読者に判断してもらおう。」とのことでした。この本のまえがきには「戦争を議論するための知識ではなく、それを想像するきっかけを提供する」ために書いたとある。 この本には、南京で何人死んだか、原爆で何十万人が死んだか、ベトナムで、イラクで、パレスチナで何人死に、殺されたかを問題にしていない。どのように殺されていったのか、殺した人の気持ちはどうだったのか、を問題にしている。 本で編集上落としたことで印象に残っている言葉として、もとベトナム帰還兵のアレンネルソン氏の言葉を紹介していた。ネルソン氏は帰還後PTSDを患ったのであるが「自分は人を殺したんだ。」と認めない限りは、立ち直ることが無いという。『日本全体がPTSDを患っている。アジアに何をやったか認めない限りは決して直らないだろう。」もちろん『認める』ということは言葉で「ごめんなさい」といった舌の根も乾かないうちに、殺した側を神として祭りあげることではもちろん無いだろう。 (05.05.15記入)
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