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2004年11月01日(月) ■ |
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再開の弁 |
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9月24日、「スウィング・ガールズ」を2重投稿してしまって、「あっ、やっちゃった」と思った直後、PCがブレイク・ダウン。去年と同じ理由で長いお休みをさせてもらいました。しかし、去年はPCの買い替えが必要な深刻なハードの故障だったのに対し、今回はソフトの不具合。再インストールで二日後には再開。しかし、いろいろ不具合があってインターネット再開には1週間以上かかり、「まあいいや。このまましばらく休んじゃえ」と思って1ヵ月半近く休んでいましたが、このたび、月が変わるに従い、再開する次第です。
一応(毎日更新めざす)と書いてるのですが、元より毎日1冊、あるいは一本、あるいは1回、本を読み終えたり、映画を観たり、旅をしたり出来るはずも無い。私もごたぶんにもれず、毎日サービス残業をしたりする長時間労働者ですし、しかも、労働組合の役員までしているので、週休二日といいながら、たいてい一日はなんらかの会議がある始末です。しかし、それでもこういうことに時間を割く事が出来るのは、一に私の努力(冷汗)、二に独身という境遇のせいです。しかも不幸な事に、恋愛に割く時間をほとんど持たなくてもすむという境遇のせいです。しかしまあ、休んでいたせいで大部ストックも出来たし、しばらくは毎日更新できそうです。
この秋、めでたく会費更新を果たし、私も永年会員になりました。これでおそらく数年、下手をすると30年ほどは、このまま明日私が死んでも、この電脳空間に私の駄文が残る事になりました。私はその事になにやら「意義」を感じているのです。思えば不思議なものです。もちろん私の批評や、書評や、旅行記が社会的な意義があるなどとは、思うほど私は若くありません。でも「無いとも限らない」と一方では思っているのです。このサイトに訪問してくれている人は今までで1627。それは私以外に数人はいるという事を示しています。将来で言うと、何人になるかは予想も出来ないというのも事実でしょう。いやいや、一日何万も訪れる超有名で有益なサイトがある事は知っています。そいうサイトに社会的意義があるかどうか、とまでは一般的に言えないという事も一方では私は知っています。そういうサイトと比べると私の文章なんてゴミ屑の集まりのようなものです。でもです。要は何が残るかは、遠い未来の歴史家に任せるほかは無いのです。たとえば、小熊英二の「<民主>と<愛国>」を今読んでいるのですが、そこにこんないち少女の文章が載りました。1952年の静岡県富士郡上野村で、不正選挙がはびこっている事に、石川という少女が学校新聞に抗議の文章を書き、それが学校側で回収され焼き捨てられると、「朝日新聞」に手紙を書こうとする。すると彼女の家が「村八分」に追いこまれた。その後教師のアドバイスの元、知人の新聞記者に手紙を送る事になった。「私は限りなく祖国を愛したい。だから限りなく人を愛したい。」小熊はこれを「村の思想」と「祖国の思想」の対決だといい、戦後『民』の自立が試されていた時期、一方ではアクティブな革新運動に行ったが、一方では「民」の「私」の方向に行き、その「民」の分断を支配層はうまく利用したのだと指摘した。この少女の文章はそのなかではっせられた「一つの可能性」だったのではあるが、ついには歴史的には花咲く事は無く終った。私は石川といういち少女のこの文章は小熊がゴミの山の中から見つけてきた『一つの花』だと思っている。歴史家とはそういうことをするのである。
私はいつかでいい、『一つの花』を描きたい。加藤周一は戦車という圧倒的な権力の前にさしだされた『小さな花』ほど美しいものがあるだろうか、と美しさの基準を描き出した。私はその事に大いに賛成する。
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