
|
 |
| 2004年08月27日(金) ■ |
 |
| 「超・殺人事件」新潮文庫 東野圭吾 |
 |
「超・殺人事件」新潮文庫 東野圭吾 この文庫には解説がついていない。当たり前である。この短編集の最終編、「超読書機械殺人事件」のあとに解説など載せようものなら……。 この短編には「ショヒョックス」なる機械が出てきて、ありとあらゆる本の書評を10分そこらで作ってしまう。誉めるのもけなすのも自由自在。「現実味のないトリック」もおべんちゃらモードでは「幻想的な仕掛け」になるし、「人間が描けていない」のも「人物の本性を巧みに隠してある」になる。機械に任せていては個性が無くなるのでは、という心配もやがて解消する。そうしているうちに読者である私たちは確かにそうだよなあ。ミステリーの書評なんてどうとでも書けるよなあ(機械に任せなくても)と思ってしまう。帯に『日本推理作家協会除名覚悟!』とあるのも肯ける。もし除名なんてことになれば出版社が困るのでは、という心配はおそらく無用。この短編集には「超予告小説殺人事件」というのもあって、売れない作家の小説がある現実の事件によって急に売れるようになるという話である。本や雑誌というのは作家や作品が話題になればなるほど売れるのである。この短編集に見事に流れるテーマは「本が売れるのは内容に関係無い」という出版業界の「常識」なのである。「超長編小説殺人事件」での「本が厚くなればなるほど売れるようになる」という現象には笑った。私は著者のブラックな『告発』を充分楽しんだ。その他、「超税金対策殺人事件」が秀逸だった。 一つ心配なのは、この書評のモードは「甘口」だったかも。ということだ。
(この文章はどうやらアマゾンコムで没になったみたいだ。書評自体の無能を評したのが悪かったのだろうか。そもそもアマゾンコムの書評がOKとなる基準がいまだに藪の中である。一度たずねた事がある。教えてくれなかった。最近では問い合わせ自体が出来ないようになっている。)
では、改めて、「無難」な書き方をしてみる。
作家には2種類のタイプがある。一つのテーマを変奏曲の様に何度も何度もくり返すタイプと、次ぎから次ぎへとテーマだけではなく文体まで変えてしまうよなタイプである。どちらがよい悪いではない。後期の夏目漱石のように同じような話を何度も書いていても文豪と評される事もあれば、森鴎外のように私小説まがいのものから史論までいろんなタイプの文を書いてもやはり文豪になる事がある。東野圭吾は推理小説畑の中では「森鴎外派」であり、しかも文豪ではないが、「代表格」である。
彼のようにいろんなタイプの小説を書いているとやはり悩みは尽きないのだろう。本が売れる要因は「内容が面白いからなのだろうか」。おそらくそういう自問自答の中からこのブラックユーモア溢れた短編集は生まれたのだろう。自分の営業上の悩みさえも作品として反映させる。まったくもってテーマ万能型の雄ではある。
話題にのりさえすれば、本は売れる。単行本の厚みが増して本屋の中で目立ちさえすれば、本は売れる。そして書評なんかは書きよう次第だ…。ユーモアにかこつけた彼の本音が随所に出ていて、私はずいぶん楽しんだ。
|
|