
|
 |
| 2004年08月06日(金) ■ |
 |
| 造山古墳周辺の遺跡を巡る04.03.13 |
 |
造山古墳周辺の遺跡を巡る 04.03.13 今回の「古代吉備を語る会」は私がこの会に参加し始めて、初めての吉備中枢部の探索です。しかも弥生墳丘墓が二つも含まれている。なにがなんでも参加しました。出宮さんの熱のこもった倭国大王陵説を聞き、非常に充実した会になりました。
先ず行ったのは雲山鳥打(くもやまとりうち)墳丘墓。山陽高速そばの山の上の道無き道を踏み分けいくと、かすかに盛り上がっているところがそうだそうです。昔一人で探してみてとうとう見つけられなかった墳丘墓です。 やっと出合う事が出来て大変嬉しい。ここに三基の墳丘墓があったそうです。竪穴式で木郭、下には円礫を敷き、朱を撒いていたらしい。造り自体は私が去年12月に釜山の博物館で見た古墳群のそれに非常によく似ている。特に見晴らしのいい丘の上に複数作るところが似ています。弥生後期後半の墓で大陸の影響化にあった墓らしい。特殊器台、特殊壷が出ている。場所は高松城を見下ろす高台にあり、水攻めのときの陣地にもなったみたいで、破壊が著しいらしい。しかし、反対に言えばこの見晴らしの良さは、高松城一帯の平野を生産基盤にしていた共同体のリーダーの墓だったということも出来るかもしれない。墓はいずれも北枕だったそうだ。これも大陸の影響か。
次ぎに行ったのは、鯉食(こいくい)神社墳丘墓です。神社の下がそのまま弥生墳丘墓なのです。ここには何回も来ています。ここから直弧紋の破片土器が採取されたと聞き、私も見つけられないかと何度も歩き回ったものです。1916年、拝殿改築時に南北に細長い竪穴式石室が2基並んで見つかったとのこと。向木見型の特殊器台と特殊壷、高杯などが採取されている。弥生時代後期後半、築造順は楯築→雲山鳥打→鯉食神社、らしい。鯉食は楯築の一〜二代あとの墓なのか。楯築、雲山は見晴らしいのいい丘の上なので、まだ墓を作る理由が分かるのですが、鯉食は古い住宅地の一角に作られています。場所が楯築、雲山のちょうど中間地に当たるので、何か意味があるのかと聞いたところ、それよりもどの墳丘墓も日差山の主要な尾根筋の先端に作られていることを重視したほうが良いとの指摘をうけた。その先端から見渡せる辺りが、その墓がリーダーとして影響力を持っていた地域なのでしょう。確かに鯉食もその周りの家を取り除けば、丘の上でした。
そして前方後円墳体制がひかれて非常に初期の段階の古墳、矢部瓢箪塚(やべひょうたんづか)古墳に初めて行きました。全長47m。前方部が撥型に開いています。日差山の尾根筋で、真東に楯築、あるいは女男岩墳丘墓、その向こうに吉備の中山、または雲山鳥打、鯉食も見渡せる、いわば扇の要の位置にある前方後円墳です。特殊器台型埴輪や、特殊壷型埴輪の破片が採取されている。吉備の前方後円墳で、埴輪が出てきたのはこの古墳が初めてらしい。吉備の特殊器台が大和に移り、埴輪になって戻ってくるまで若干のタイムラグがあったことを示す貴重な例らしい。つまり埴輪は大和で発明されたということなのでしょうか。それはともかくここからの眺めは素晴らしかった。
今回楯築へ行かなかったのは残念でしたが、まさしく弥生時代後期、吉備の国が「クニ」として発展した時の主要人物たちの墓に今回は行った、という気がしています。そのとき吉備の中山は聖なる山だったかもしれないが、実際の墓はその真西の日差山に弥生、古墳時代にかけてずっと大小作られているのは注目すべきではないか。日差山とは何か、もうちょっと考えていくべきカナ、とも思いました。
そして昼食休憩をはさんで造山古墳へ。 一般に考古学者というものは事実以外の「推測」は言わないものですが、おそらく個人的に相当の確信があるのでしょう。珍しくこの会の主催者岡山教育委員会の出宮氏が自ら講師を買って出たと思ったら、「造山古墳は倭国大王陵か?」説明文章には教科書を書き変えそうな「衝撃的な」タイトルが付いていました。しかし根拠は「なるほど」と思えるようなものばかりでした。私は支持します。
吉備に住む私たちでも一般に造山が日本第4位の規模を誇る墓だったぐらいは知っています。少し考古学に詳しいものは築造時期には日本で一番大きい規模であったことも知っています。しかし、それはいずれも当時の吉備地域が倭国の中で大きな役割を持っていたという証拠以外の何者をも示してはいなかったのです。しかし出宮氏は造山は「吉備の大王」の墓としてはその質量とも域を超えているというのです。「倭国の大王」とする以外はない、というのです。当時、倭国の都は明かに大和にありました。しかしその後なんらかのごたごたがあって一時期都が河内に移ります。出宮氏は造山がその過渡期を引きうけたいわば中継ぎ投手の役割を引き受けたのだろうというのです。当時倭国は都は大和にあったとはいえ、大和は各国の連合組織的役割を持っていただけでした。というのが最近の定説になりつつあります。それは、私の言う「大陸とは一線を画して倭国が平和的に統一国家をつくった。」ということにつながります。今回のいわば「吉備倭国遷都」が証明されれば、私の「論」も補強される事に成ります。出宮氏ガンバレ。
出宮氏の根拠は以下の通りです。 ●この時期(5C前半)の「記紀」において「吉備」の群像の記載頻度は大伴氏、物部氏を凌いでいる。 ●周濠はないが、塚域を伴っていたという証拠が見つかった。田んぼの地割りに一部塚域の線が残っているのてある。これは吉備地域の前方後円墳にはない作り方だそうだ。その「跡」だという畦道を歩きました。 ●様々なかたちの埴輪が出土。石棺は阿蘇から持ってきている。九州との繋がりはこれが「大王陵」である証拠。 ●吉備の従来の大形前方後円墳には見られない陪塚、あるいは時代が下って「幕僚」の墓も付随していて、吉備の王としての域を超えている。 ●その時期の吉備の最大の墓、金蔵山古墳より全長で2.12倍の大きさ。各差が大きすぎる。 ●造山古墳の位置は明かに風水観に基づく「王陵の地」の地形にある。 その他にもあったかもしれない。花嵐さん補足があればお願いします。 「万年野党でもときには与党になる事がある」とは一時の「社会党」を「例」にした出宮氏の説明の言葉でした。
さて、王の墓がある以上は、当然都も吉備に遷都してきたと考えなければ、作る主体がありません。その事を質問すると、出宮氏は少し言葉を濁しました。大王が吉備出身ということで墓だけここに作ったという考えも持っているようです。しかし私はそれではこんな大きな墓はそれこそ作れないと思います。そうすると出宮氏は風水の観点から、後円部をまっすぐ伸ばした津寺辺りが都候補地としては怪しいと教えてくれました。はてさてみなさん、「世紀の大発見」目指して掘ってみますか?
その後造山の2〜3世代あとの小造山古墳、あるいは幕僚候補たる車山古墳跡を見て帰りました。今回も約14キロ、歩きに歩きました。
|
|