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2004年08月05日(木)
彦崎貝塚確認調査現地説明会04.02.01

昨日の「光州水村里遺跡」は「公州水村里遺跡」の間違いでした。
お詫びして訂正します。

ついでに補足説明すると、
昨日の文章もこの文章も、
古代吉備メーリングリストに投稿したものです。
最近の私の旅レポートはほとんど考古学関係になっています。

彦崎貝塚確認調査現地説明会     04.02.01
2月11日は私は仕事のため、現地説明会があった事をいい事に一足早く彦崎貝塚に行って来ました。説明会文書にはこうあります。「彦崎貝塚は、JR彦崎駅から南に約300mの標高約5mの台地上にあります。S23.24年に東京大学理学部人類学教室によって発掘調査が実施されました。このときには約30体に及ぶ縄文前期の人骨と共に、土器を始めとした多量の遺物が出土しました。中でも縄文土器は山内清男博士によって瀬戸内地域を代表する基準資料として認定され、現在も広く知られています。」
羽島貝塚や、津雲貝塚は知っていたし、人骨が出た事で、有名な事は知っていたのですが、彦崎貝塚はそれに勝るとも劣らない貝塚であった事を今回はじめて知りました。東京大学の研究室深くに人骨が眠っていたのです。なんと妊婦の人骨も在り、胎児とセッとで出てきたようです。パネル展示、票本展示もされていて、今回地元の人もあまり知られなかった彦崎貝塚の全貌が分かる展覧会にもなっていたみたいです。
さて、今回の調査ではまさしく貝塚を掘っていました。これほどまでに「牡蛎」の貝のみでてくる貝塚いは珍しいそうです。(晩期はハイガイのみになる)その貝塚から今回は中期の人骨が前期にはない「土溝墓」から出土しました。また牡蛎の加工場と思われる焼成土も発見されています。香川のサヌカイトも多量に出土している事から、それらとの交換のための特産物だったのでしょうか。今回の調査でついには人の住んでいる跡は見つからなかったみたいです。しかし前期・中期・後期・晩期と一貫して縄文時代を住んでいるこの地域の人たちです。どこかに住んでいたところが在るはず。なぜか西日本の貝塚からは住居跡が見つかっていないらしい。私はふと沖縄みたいに洞穴に住んでいたのかと思い、聞いてみましたが、この近くに洞穴なんてないらしい。学芸員の方は16年度調査予定地の彦崎団地隣の辺りが怪しいと思っているみたいです。
ここだけで2時間もうろうろしていたのですが、終ってみると疑問が次々と出てきます。聞きそびれたのですが、弥生時代になるとこの貝塚は急速に寂れたみたいです。それは岡山の貝塚の特徴なのか。つまり人は吉備地域あるいは他の弥生村に集合していったのか。多量の動物遺体、植物種子は出てきているみたいだが、三内丸山みたいに栗などの栽培、あるいは稲の栽培の可能性は?前期で香川や近畿との交流は在ったみたいだが、岡山県内の貝塚同士の交流は?土偶など、精神世界を垣間見る資料の出土はないのか、ないのならなぜ出てこないのか。
考えてみれば縄文全時代に渡って遺物が在るというのは凄い事です。一万年近く永遠と人々はこの地域に住んでいたという事です。それほどまでに瀬戸内の海の幸と、児島の山の幸は豊富だったのか。人々はいったいどんな「伝説」を大事にしながら住んでいたのでしょう。
2月11日に行ったかたがいましたら、皆さんの感想も聞いてみたい。