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2004年05月15日(土)
『ロード・オブ・ザ・リング』あるいは『指輪物語』の世界(映画編)

<映画編>
第一部「ロード・オブ・ザ・リング旅の仲間」に出会ったとき、私は「指輪物語」のゆの字も知らなかった。しかし映画は素晴らしかった。「世界を支配できる力」を巡る大冒険というのは、いわば、ありとあらゆる冒険ファンタジーの定番である。ある隠されたところにその「力」は在り、善と悪が競ってその「力」を探しに行くというのが、ほとんどのパターンであった。ところが、この物語は違った。「力の指輪」すでに善の側にある。しかしこの「力」を平和利用できない事はすでに善の側の誰もが(ボロミア以外は)悟っている。もちろん彼らは必死に「理性」でそれを悟っているのである。あの善良なビルボさえ、指輪の前では鬼の表情になる。もっとも知恵深く美しいエルフのガラドリエルでさえ、指輪の誘惑を克服するのに全身全霊を賭けねばならなかった。ではどうするというのか。もっとも困難で危険な道を通り、指輪を捨てる以外にはないというのだ。そのための旅が第一部の後半で、基本的にはその旅を巡ってこの物語が進んでいく事になるという。どきどきした。こんなファンタジー聞いた事がない。指輪を捨てる、それだけのために、困難な山を登り、最悪の魔王と闘い、大戦争を起すというのである。人間の歴史はいわば「力」を獲得してきた歴史である。しかしこの物語は「力」を捨てる話というのだ。そういう物語が果たして成り立つというのだろうか。雄大な自然を背景に、一人一人のキャラに深みが在り、しかもCGは素晴らしさがあってこそ実現できた事ではあろう。しかしそれだけではない。友情、裏切り、勇気、愛、そして謎が必要だった。もっとも大きな謎は「指輪とは何か」という事だ。最初は現代の「核兵器」を象徴しているのだと思った。しかしそういう単純な理解はこの物語を小さくしてしまう。「権力」「悪徳」「誘惑」とかそいう代わりの言葉は出来るだけ用いない方がよい。それは全て見て読んだ人間だけがふとその時々に思い浮かべるべきものである。つまり最後まで「謎」は「謎」のまま残る種類のものだと思う。ただこれだけは言えるかもしれない。このファンタジーの三部作全てを見終わったあと、私たちは現実を相対的に見る目を持ってしまった事に気が付くだろう。この映画にはそれだけの力があると確信した。それは第三部まで見ないとだめだろう。「ロード・オブ・ザ・リング」は傑作である。私は人にそう吹聴するようになった。私は第一部を見て一挙に「指輪物語」ファンになったのである。

第一部はほとんど神話的世界で進んでいったが、第二部「ロード・オブ・ザ・リング二つの塔」に至ると舞台は人間世界に入っていく。ローハン王国の城は日本の中世の山城を想起させ、ヘルム峡谷を巡る大攻防戦は中世の大戦争はかくあらんかと思わせ、今までの戦争映画では描かなかった大人数の戦争を見事に描いた。しかも一人一人の動きが違うという新しいCG技術を使い、非常にリアルである。サルマンが自前の武器と兵士を作るために近隣の古森を破壊して、そのために木の髭の怒りを買い滅ぼされるという話は、近代工業主義、現代環境破壊への批判とも受け取れるが、一方行動に移るまでの木の髭たちの優柔不断さがまた世の大人たちを想起させ微笑みを買った。

そして第三部「ロード・オブ・ザ・リング王の帰還」。すでに原作本は読破して迎えていたため、正直あまり期待していなかった。あとで述べるが、私は「ホビット庄の掃蕩」がこの原作「指輪物語」のクライマックスだと思っていた。なんと映画ではそこは省略されていると聞き、結局悪に対する善の勝利で終る、キリスト教的世界観の物語に縮小されるのではないかと危惧していた。というか、「掃蕩」を描かなかったらたとえ「灰色港」を付けたしてもそうならざるを得ないではないか。ところが映画を見て、なるほど映像の力とはこういうものかとほととほ感心したのだ。この物語は悪に対する善の勝利の物語ではない、ということにきちんとなっている。なぜゴラムがあれほどクローズアップされて描かれたのか、その事に思い至れば一つの答が出るだろう。ゴラムのCGは素晴らしかった。もはや人としての形をとどめていないゴラム、しかし顔の表情は豊かで、CGである事をまったく感じさせない演技。本当は彼をもっとあっさり単純な悪役として描く手段もあったはずだ。しかし彼は主役を食うほどの存在感を示す。サウロンが指輪の真の所持者として、いわゆる悪の歴史、悪の社会を代表しているのだとしたら、ゴラムは指輪に五百年の間影響され、一人の平凡な漁師がどのように心を蝕まれていくか、心の世界を代表している。ゴラムに権力欲は一切ない。ただひたすらとてつもない唯一の指輪を自分のものにしたいという独占欲だけがある。ゴラムは2重人格者である。指輪以外の全てを憎むゴラムと、人のよい漁師だった頃のスメアゴルが同居している。果たして彼を悪として切り捨てる事が出来るだろうか。フロドは道案内が必要だったという事もあるのだが、一貫してゴラムを切り捨てなかった。同じ指輪所持者として、ゴラムの中の独占欲が理解できたからかもしれない。ゴラムへの態度はそのままこの映画での「悪とは何か」という事への態度を示しているだろう。そうであれば、結果的にゴラムが指輪を捨てる役を担った事も理解できる。第一部でガンダルフはすでにモリア坑道でフロドにその事に言及している。フロドでは結局指輪を捨てる事が出来なかった。しかしフロドはガンダルフにもエルロンドでも出来なかった事をなしえた。指輪を持って滅びの山まで行く事自体がすでに奇跡なのだ。第一部ではその事を何度でも描いていたではないか。フロドは強かった。一部の中ではガラドリエルに易々と指輪を渡そうとさえする。全てが終った今、それがどんなに凄い事だったのか実感できる。指輪の前ではどんなエルフでも、魔法使いでも、人間でも堕落する。エルフはサウロン、魔法使いはサルマン、人間はボロミア、ホビットはゴラム、それぞれ堕落した姿が描かれる。いや、堕落といっていいのか。力を得る事は本当は「進歩」といっていいのではないか。誘惑されやすい人間である私はいまだにその事の判断が付かないでいる。だからフロドが最後に指輪を私のものだ、と宣言したとしても決して裏切りだとは思わない。それはもしかしたら一つの「選択」だったかもしれないのだ。そもそも指輪の誘惑に関してはこの三部作全体に渡って執拗に執拗に描かれる。ボロミアは指輪を直に持たなくても影響され、今回もサムは本の少し指輪を持っていただけで、フロドに指輪を返す事が簡単に出来なかった。たぶんあの時はじめてサムはフロドの苦悩と偉大さを理解したのだ。それがサムがフロドを背負う名場面につながっていく。そして、もっとも力を欲しないゴラムが指輪を最終的に手にする。ゴラムは力が欲しかったのではない。「いとしいしと」美しいもの、愛しいもの(それは指輪が自分を愛してくれているという錯覚も含まれるのかもしない)が欲しかったのだ。だからゴラムは指輪を自分のものにしたあとはなにもいらなかった。自分の「死」さえ、問題ではなかった。ところで、ゴラムは指輪と共に火口に落ちたとき、起死回生の方法として指輪をはめる事も出来たはずなのにそれをしなかった。(映画では原作にはない指輪消滅シーンが描かれている)指輪の隠れた力は甚大なのでもしかしたら奇跡がおきたかもしれないのである。しかし、以上に述べた事から、ゴラムにそんな事をする発想は生まれるはずもなかったのであろう。ゴラムは自分が死んでも指輪だけは生かそうと指輪を溶岩の上に掲げる。結局善が悪に勝った物語ではない。「指輪」とはなになのか。その事は見る人各人の判断に任せたまま、今回は指輪は世界のあらゆる人たちの努力の結果、支配の歴史とか権力の象徴に渡るのではなく、「ゴラムの心」の中に渡って消滅していった物語になったのである。

フロドの人相が刻々と変わるのも、映画ならではの見物であった。疲れ切った顔から、疑心暗鬼の顔、独占欲丸出しの顔、そして指輪を自分のもにすると宣言したときの権力者の顔、一転指輪を手放した直後の(絶体絶命の状況なのに)晴れ晴れとした顔、旅の仲間たちと再会したときの嬉しそうな顔、サムたちと別れる時の穏やかな顔。特にフロドの晴れ晴れとした顔が印象的だった。彼は自分の力で指輪を克服できなかった。もっとも欲のない代表格であるフロドでさえそうなのだ。いわんや私たちおや。
謎といえば、なぜ灰色港でフロドはエルフと行動を共にしたかも謎である。映画ではその辺りが分かるようには描いてはいない。その辺りも私が気に入ったところである。いわばその事はこの作品の「肝」に当たるところだ。簡単に分かるようではいけない。もちろんいろんな人が一応の説明をしているが私は納得していない。この謎は「指輪とは何か」が分からない限りは分からないと思っているからだ。

「王の帰還」の「王」とは普通アラゴルンと思う人がほとんどだろう。しかし原作を読んだ私の理解は違っている。「ホビット庄の掃蕩」でフロドを中心とする四人のホビットが、指輪を介さずサルマンと最後の対決をして平和を勝ち取るあの場面がクライマックスで、よって「王の帰還」はそのまま「ホビットたちの帰還」と理解してもいいだろうというのが私の解釈である。しかし、映画ではほとんど同じことをほんの10秒ぐらいで処理してしまった。(戴冠式の場面)いやア、こういうやり方もあるのだと私は感心した。

「ロード・オブ・ザ・リング」の背景には描かれていない膨大な中つ国の地理、言語、歴史がある。しかしそれを知っていなくても分かるように映画は作られていると思う。一方その背景があるからこそ、例えば突然架空の言語エルフ語が飛び交っても私たちは違和感を覚えないのである。ローハンやゴンドールの紋章、騎士団の装備などの美術の素晴らしさ。

原作ではよく分からなかった戦闘場面の推移、などが全面に現れる。レゴラスの超人的な描写はいわゆる英雄物語としての基本的な描写であろう。幽霊軍団の活躍は原作では海賊退治までだったが、ペレンノール野までやってきた事で良しとしよう。ちょっと戯画的になった事は私的には許される。デネソールの描写はひどかった。あれでは何の事かさっぱり分からない。しかしエオウィン姫の魔王退治は原作通りとはいえ、感動した。いやいや、こんな事を語り始めると切りがないので、映画編はこれまで。