2024年07月25日(木) |
タブレットを使うと馬鹿になる |
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最近の学生はノートを取らないらしい。大学生が講義のノートを取らずにICレコーダーに録音するとか、板書をスマホで撮影するとかは聞いたことがあったが、中学生高校生もノートを取らなくなっていて、その最大の理由が「タブレットの普及」によるものらしい。どうやら先生が板書して、それをノートに取るという昔の学習スタイルが完全に崩壊しているのである。そもそもそんなことで勉強できるのだろうか。
もちろんオレもそれほど字が上手なわけでもないし、きれいにノートを取ることはできなかったわけであまり自慢するほどのことは言えないのだが、きちんと整理されたノートというのは価値があるし、ノートを整理する段階で知識も整理されるわけである。複数のノートを用途別に使い分けるということもできるし、ノートを使って自分の手で書いて学習するというのはいつの時代も有効な手段であるとオレは思っている。
人は見ただけではなかなか記憶できない。数学の問題の解き方を見ているだけですべてを理解することができるわけがなく、自分も同様に問題を紙のノートの上で解いてみて初めて知識は定着するのである。ところが数学や理科でも最近は「見てるだけ」という生徒が増えているらしい。これは由々しき問題である。
そもそもタブレットを学習に有効活用できるのはある程度学習に意欲的な生徒だけであり、そんなものが机上にあればDQN生徒は授業中でもゲームをして遊んでるのである。そんな馬鹿でも入れる大学もちゃんとある。そういうわけで馬鹿のまま大学生になり、そうして社会人になって行く連中も大勢居るわけである。
タブレットの使用やICT教室、教員がパワーポイントなどを駆使してわかりやすく展開する授業は確かにわかりやすいのかも知れないが、それは本当は「わかりやすい」のではなくて「わかったような気分になりやすい」だけではないかとオレは思うのである。
今の中学生高校生が昔の中学生高校生と比較してどうなのかはオレにはわからない。どんどん劣化してるように感じるのはオレのただの主観である。ただ、かつては200万人を超えた18歳人口が今は100万人を切ってしまってるのに、東大や京大の入学定員はさほど変わらず、関関同立や早慶は新しい学部の設置などで定員は倍くらいに増えている。だから平均的にはレベルが下がっているはずだ。少なくとその集団の中の相対的な地位は難関大学と言えどもかなり低下しているのである。関西で関関同立と言えば昔は偏差値60以上はないと厳しかったが、今は55くらいまで下がってるし、偏差値50以下の生徒でも運良く合格することもある。Fランク大ではもはや壊滅的なほどに定員割れの大学が多い。
IT機材の導入によって生徒は賢くなるどころか却って馬鹿になった。これは『荘子』にある「機械ある者は、必ず機事あり。機事ある者は、必ず機心あり。」というくだりを連想させる。その意味するところは「機械ができると、便利と考え、その機械を用いる仕事が起こってくる。ところが、機械はからくりであるから、このからくりに従事していると、いつとはなしにそれに振りまわされ、いわゆる機心が起こってくる。」という意味である。タブレットは便利だ。しかしいつしか自分で覚えたり考えたりまとめたりという学習の基本がおろそかになっていくのである。
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