88歳の母を神戸の母の同級生の家まで車で送ってきた。お泊まりである。
母は小学校1年生の時に父を亡くして、祖母(母の母)は4人の子を連れて郷里である鹿児島県の坊津に帰った。女手一つで4人の子を育てるのに都会よりも親戚のいる田舎の方がいいと思ったからだろうか。小学校1年の3学期に転校してきた母にはすぐに仲良しの友達が出来た。母は男1女3の4人兄妹で、一番下の妹はまだ乳飲み子だった。丸木が浜という場所にあった塩田で働く祖母のところにお乳を飲ませるために連れて行ったこともあったらしい。子供を4人抱える女性が日々の生活のため、男性に交じって肉体労働していることをどうか想像して欲しい。どんなに苦労したことだろうか。
坊津は米軍の艦砲射撃を受けたこともあり、空襲警報で山に逃げ込んで一夜を明かしたこともあったらしい。終戦を迎えてからも決して生活が楽になることもなく、母が中学3年の時に祖母は子宮癌で亡くなった。大阪にいる父方の親戚を頼って兄妹4人は坊津から出てくることになる。母は泉州地方に多かった紡績の工場で働くことになった。
坊津出身の同窓生たちは関西に出てきた人が多く、お花見の時期に神戸で同窓会が長く行われていて、母に連れられて須磨浦公園に行ったことを覚えている。その時の子どもがこんなオッサンになって車で母親を送ってきたことを、母の同級生のおばあちゃんたちはどんな感慨で受け止めたことだろう。
坊津にはもう母の暮らした家はない。そこは空き地として放置され、いちおうその土地の継承者として母はわずかばかりの固定資産税を払い続けている。畑もあるが長いことオレは行ったことがない。そもそも集落にはもう若者はいない。いずれ滅びてしまう典型的な日本の田舎である。
小学生の頃の思い出話を楽しくしているおばあちゃんたちを残してオレは大阪に帰ったのだが、その年齢まで元気に過ごすということはとても幸福なことではないかと思ったのである。大きな病気をしたり、癌の手術で乳房や胃、大腸を切除してもなおその年齢まで元気に暮らせている。そして家族とのつながりがあって支援を受けられるし、生活の心配がない。誰もが家庭を持ち、子や孫にも恵まれている。どんなにスタート時点がマイナスであっても、普通に就職して結婚すれば最終的にはこんな穏やかな時間が待っている。それがかつての日本ではなかったか。
80年前のことを楽しそうに話す母たちを見ていて思うのは、果たしてオレはこの年齢までボケずにいられるのだろうかということであった。最晩年を穏やかに過ごすこととなった母は、最近は食欲も落ちてしまい美味しいものも少ししか食べられないのである。母が好きな赤福をオレは時々ハルカスの近鉄百貨店で買うのだが、それもいつまで続くられるのだろうかと思う。亡くなる前の父と日曜日の昼によくお好み焼きを食べに行ったこととかを思い出す。母と一緒に車で出かけると、たまに私がお好み焼きに誘うことがあるのだが、もちろん母は一枚食べきることができないのでいつも私は1.5枚食べることとなるのである。
あと何年母が元気でいてくれるかはわからない。だが、同居しているおかげで母が元気なうちはずっと見守ってあげられそうな気がする。オレももうすぐ仕事を引退してただの年金生活者になるので時間はあるだろう。
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