2024年01月17日(水) |
震災から29年〜改めて感じること |
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今日であの阪神大震災から29年が過ぎたことになる。テレビでは震災を追悼する番組が流れ、震災で兄弟や友人を亡くした人がその悲しみを語っている。それを観ていて感じるのは、親を亡くした人よりも、兄弟や友人、我が子を亡くした人の悲しみの方が深いのじゃないかということだ。もっともこれは単に主観的なものかも知れないが。
年寄りが亡くなることと若者が死ぬことは意味が違う。若者が突然に亡くなるということは、そこから続いていたはずの未来が突然消え失せてしまうということである。戦争で亡くなった多くの若者たちの未来が突然奪われたことと同じく、あの震災はとりわけ多くの若者の命を奪った。学生アパートが倒壊してその下敷きになったり、崩れた家の中で柱や梁に押しつぶされて動けないまま火事に襲われた。たとえ自分が助かっても、息子や娘が亡くなったことを知った時の親の心情を思うと、オレは居たたまれない気持ちになる。あの日、隣室のベビーベッドに寝かされていた長男のもとに真っ先に駆け寄ったのはオレの母だったからだ。オレは長く激しい揺れの中で、このまま家と一緒に押しつぶされて死ぬことを覚悟していた。
1月1日の能登半島地震の時にオレが思ったのは、29年前に自分が体験した阪神大震災だった。29年前の記憶のある人は誰しも同じ思いだっただろう。そしてあのとき全国から支援の手が差し伸べられたことを思えば、今やれることは何かという答えは自然と出てくることになる。
Xにはすぐに現地に赴いた山本太郎さんを貶める投稿が大量に出現した。特に統一教会と関係の深い自民党や維新の議員、その支持者達が一斉に太郎さんが炊き出しのカレーを食べたこととを非難した。何もしない奴らが快適な場所からケチをつけるその行為は醜悪だが、音喜多が自分と真逆の存在である山本太郎さんを嫉妬していることはよくわかった。悪いけど音喜多、おまえはクズ過ぎて話にならないからもう消えろよ。点字ブロックの上で壺ダンスを踊るのがおまえの精一杯のパフォーマンスだよ。おまえの手書きのフリップの「被災」の文字の「被」が一画足りなくて、ころもへんがしめすへんになっていたんだけど、そんな字も知らないおまえの教養のなさはよくわかるよ。早稲田でもどうせ女のケツを追いかけることしかしてなかったんだろう。
日本は地震国だ。能登半島の西側は3〜4m隆起した。運転停止中の志賀原発は変圧器が壊れて大量の油が海に流出し、非常用電源も使えなかった。もしも運転中なら確実にメルトダウンを起こしていただろうし、海が4mも隆起したら取水用のパイプが損傷して冷却不能になる。日本列島は原発を作ってはいけない地域なのである。
時間が経てば街は復興し、震災で破壊された建物は撤去されて日常が戻ってくる。しかし亡くなった人はもう戻らないし、記憶の中の悲しみも決して消えることはない。地震や台風と言った自然災害を逃れることが不可能な日本という土地であるからこそ、その災害に対する備えは何よりも重要だ。利権のための万博やカジノにうつつをぬかしているクズ政党なんかに政治を任せればどんなことになるか。我々は十分に理解しておく必要がある。
災害は突然やってくる。我々はいつその当事者になるかわからないのである。そんなときに弱者に寄り添ってくれる政治家は誰なのか。国民のために政治をしてくれる政治家は誰なのか。そのことをいつも我々は投票するときに考えなければならない。「万博開催によって被災地の方を勇気づける!」などとアホなことを語る政治家は、空襲で焼け野原になった街を眺めながら「大丈夫、日本は神の国だから戦争に勝ちますよ!」と言う馬鹿と同じくらいに日本に不要な存在である。自民や維新のようなクズ政党に政権を取らせれば、南海トラフ地震で日本は確実に滅亡するだろう。真に国民に寄り添った政治ができるのは誰か。そろそろちゃんと気付いて欲しいのである。
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