2022年10月19日(水) |
普通に見えるということ |
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オレは子どもの頃から抜群に視力が良かった。視力検査は両眼1.5というのが普通で、めがねをかけることはなかったし、今ももちろんそうである。細かい字を読むときに老眼鏡を使うが、それもかなり軽度のものである。オレの両親もめがねをかけていないし、妻もめがね不要である。ただ、家族全員が老眼鏡のお世話になっている。
ただ、オレも左眼の視力が最近落ちてきて、片方だけ0.7とかいう状況になってきた。なぜか左がアレルギー性の結膜炎になりやすいのだが、眼科で視力検査をしている時に「免許更新の前に来て下さい」と言われた。ずっとめがねなしの生活に慣れていたので運転時にめがねが必要になるというのは困ったことである。
オレは目薬をさすのが苦手だ。眼に異物が入ることを極度に畏れている。コンタクトなど言語道断である。目薬もよくそれてしまうので、人にさしてもらうもらうことがある。家で目薬をさすときは仰向けに寝転んでさす。世の中には自転車に乗ったままさせるとか、二階からさせる猛者がいるというのはオレには想像もできない。
母が老人性の白内障の手術をすることとなった。大学のOB会の時に久々に会った同期の友人がめがねをしていなくて、理由を訊くと白内障の手術をしたからということだった。白内障で人工のレンズを入れるとそれで見えるようになったという。そういう利点もあるのかと驚いた次第である。ただ、調節できないというのは不便なことだろう。オレはいつまでこの見える状態を維持できるのだろうか。
眼科に行くといつも眼圧を測定される。緑内障になると視野が失われてしまうのでこの検査もかなり重要である。オレは定期的にいろんな検査を受けること健康を維持している。かつて十二指腸潰瘍で入院したことが三度もあるオレにとって、定期的に胃の内視鏡検査をすることは必須だし、頭痛持ちなので脳のCTも年に一度は撮影している。
オレがずっと手に入れてきた「普通に見えている」という状態は決して誰でも持っているものではない。そういう便利な人生を手に入れられたことには感謝しないといけない。そして周囲に確実に存在する「見えない人」に対する配慮の気持ちを常に持たないといけない。朝の通勤時に時々見かける白杖の方がいるが、追い越すときは速度を落としてかなり離れて通過するようにしている。
以前にあべのアポロビルのエレベーターを待っていたら、盲人の方の数人のグループが飲食店から出てきたので、「何階に行かれますか?」と私から声をかけたことがある。そして天王寺駅への連絡通路のあるB1のボタンを押して、自分も同じ階で降りたので様子を見ていたら、歩き慣れたコースなのかすぐに乗り換え通路の方に向かっていかれた。店での食事の時に料理が見えていないのにどうして食べるのだろうかとそれがとても気になったのである。
自分にとっての普通のことであっても、誰にでも普通であるとは限らない。クルマを運転すること、スマホを使いこなすこと、確定申告すること、投票に行くこと、そうしたことをとても困難に感じている人も居るのだ。いつか自分も老いる。こんなことを書くとまだ自分が若いみたいだが、オレもすでに老人である。ただ、少し若めの老人であるだけである。まだ電車で席を譲られたことはないが、外見からはそう見えているのかも知れない。
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