2022年01月17日(月) |
震災から27年〜忘れるということ |
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あの阪神大震災から27年が過ぎた。早朝の地震であったために倒壊した多くのオフィスビルはまだ無人だった。もしもあと3時間後で地震が起きていたら、新幹線やラッシュアワーの満員電車の脱線で想像もつかない被害が起きていただろうし、倒壊したビルの下敷きとなって多くの人命が失われていた可能性がある。
今、神戸を歩いても震災の記憶につながるような建物はほとんど残ってない。あの地震を機に建物の耐震基準は大きく見直された。その結果として多くのビルで耐震のための改修が行われ補強された。耐震工事をしていたおかげで東日本大震災の時に倒壊を免れた多くの建物がある。その一方で、危険な建物はまだ多く残っている。
地震によって死ぬのではなく、建物によって殺されるということを阪神大震災で我々は学び、建物が倒壊しなくても津波によって死ぬということは東日本大震災で教えられた。そして地震でも津波でもなく、原発という人間が作ったものがリスクになるということも東日本大震災がなければ我々は意識することもなかっただろう。
太平洋戦争の記憶を持つ人がいなくなったから声高に武力行使を主張する人が増えてきたのではないだろうか。「敵基地攻撃能力」などという概念を振りかざし、先制攻撃を主張する政治家もいる。「相手が攻めてくるかも知れない」という疑心暗鬼が、小さな紛争を引き起こし、やがて全面戦争へとつながる。武力侵攻によるクリミア半島占領をすんなりと実現できたロシアの次の標的はウクライナである。中国は将来の台湾への武力侵攻を公言している。ロシアや中国のような遅れてきた帝国主義国家に対して国連は無力である。プーチンや習近平のような独裁国家に対して、力を伴わない正義は何の意味もない。
地震の記憶も失われていく。南海トラフ地震はいつか必ず起きる。しかし、阪神大震災や東日本大震災の記憶はやがて失われていく。そうして人々が「安全」という幻想を抱いた時突然に地震が起きる。阪神大震災の時も、「神戸では地震が起きない」と多くの人が信じていたのである。京都や大阪も大地震のリスクがないわけではない。豊臣秀吉が築いた伏見城は地震で完成直後に地震で倒壊して多くの犠牲者を出したことが記録に残っている。
神戸の東遊園地には、阪神大震災で亡くなった人たちの名前を刻んだプレートがある。来訪者は亡くなった配偶者や両親の名前をそっと指で拭いながら、その記憶を思い出す。しかし、亡くなった人の記憶を持つ人も時間が経過するごとに減っていく。そしていつかその存在は忘れられてしまう。鎮魂のための慰霊碑は、いずれはただの歴史となってしまう。
淡路島の北淡震災記念公園にあるにある野島断層保存館への来訪者は年々減少している。かつては小中学校の校外学習での来訪も多かったが、今はその数も激減し、そこへコロナによる外出自粛が加わった。いつかその施設も忘れられ、来訪者がほとんど無くなって廃止されてしまうのかも知れない。
人は多くのことをどんどん忘れていく。オレが確かにこうして生きていたということをどれだけの人が覚えていてくれるだろうか。オレの過ごすリビングには8年前に亡くなった父の遺影掛かっているが、生前の父を知る人たちもどんどん亡くなっていく。8人いた父の兄弟姉妹も今は3人しか残っていない。先日墓じまいのために母と一緒に和泉市の横山墓地に行った折にそのうちの一人である叔母の所に立ち寄ってきた。叔母は若い頃に紡績の工場で一緒に働いていたので母と仲良しである。私の両親はいとこ同士の結婚だったのでもちろん叔母と母も従姉妹になる。二人は小学生の頃の思い出を延々と話していた。そんなに昔のことをどうして人は思い出せるのだろうか。
かくいうオレにも1歳の頃の記憶がある。自分がおむつを換えられている場面も、乳母車に揺られていたことも覚えている。そうした記憶のすべても、オレの死と一緒に失われる。そうしてすべてのことが忘れられ、いつか地球が終わる時にはそこに人類という種が存在したことも忘れられているのだろう。
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