今朝は高村光太郎の詩を思い出した。
冬が来た
きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹の木も箒になった
きりきりともみこむやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
冬は本当に突然やってきた。あちこちで雪が降り、東京からマイカーでやってきた酸ヶ湯温泉の観光客はノーマルタイヤのために山から降りられなくなった。オレは冬用の少し厚手の生地のスーツを着て出勤した。今年も秋がなかった。
オレは以前から「四季の消滅」について訴えてきた。日本は夏と冬だけになってしまい。、春や秋という快適な気候の時期がほとんどなくなってしまったと。今年もやっぱりそうなってしまったのである。日本はどうして豊かな四季を失ってしまったのか。誰のせいなのか・・・と問えばそれは地球温暖化による気候変動のせいということに帰結するのだろうか。
高村光太郎はもしかして冬が好きだったのだろうか。オレにはこの詩の感覚はマゾとしか思えないのである。「冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」という部分などは自虐の感覚である。もしかして高村光太郎は素っ裸で真冬の戸外に立ってみるような苦行を好んだのだろうか。もしもそうなら奥さんの智恵子さんよりも光太郎の精神の方がはるかに異常なのである。しかも「火事を出せ 雪で埋めろ」というフレーズは、いくら大詩人である高村光太郎といえども、不謹慎極まりないのである。どうしてそんな表現が許されるのだろうか。そんなことになれば犠牲者が出てしまうじゃないか。オレがそんなことを記事に書いたら世間から大ブーイングを受けて職場を突き止められて辞職に追い込まれるかも知れないのである。
光太郎は冬が好きだったようだが、オレは冬は好きではないし、もちろん日本の湿度の高い夏も好きではない。道路が凍結したりしてクルマで満足に走れないのは困るし、暖房を入れて車内がもわっとするのも嫌だ。快適なのがベストである。春や秋の季節がいいのである。冷暖房など不要で自然な風が気持ちいいのが一番である。
日本がこうして「二季」になってからもうかなり時間が経過した。多くの若者はかつての豊かな四季を知ることもなく成長するのだろう。そして、いつしか「春」や「秋」という感覚が失われ、古典文学の中にあるそうした世界も理解できなくなっていくのだろう。本当に残念なことである。
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