2021年09月08日(水) |
アニメを視て泣くということ |
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感受性の豊かな子どもは、映画やドラマ、アニメをテレビで視ていて泣くことがあるのだろうか。絵本を読み聞かせしてもらって感極まって泣くのだろうか。自分が子どもの頃は思い出せないけれど、妙にひねくれてマセガキだった自分にはそういうことはなく、当時の『巨人の星』という日本中に巨人ファンを増やすための翼賛アニメなんかをみても「くだらねー」と思うだけで、星飛雄馬の恋人が死んでも別になんにも思わなかった。オレはむしろ花形満が大リーグボール1号を打つためにカラダをぼろぼろにして特訓してる方で泣きそうになったくらいである。
高校3年の受験生だった時、日曜日の夜にやっていた世界名作劇場のアニメで視た『ペリーヌ物語』では主人公の聡明な女の子の健気な姿にものすごく感情移入し、最後にずっと隠していたペリーヌの素性が祖父の知れるところになり、目の見えない祖父に抱きしめられる場面では本当に泣いた。アニメを視ていて感情移入して、自然と感極まって涙があふれるということを初めて知った。自分はどちらかというと冷たい人間だと思っていただけにそのときに気づいた自分の一面に驚かされたものである。
作品世界に没入していて視ているときに自然と涙が出てしまうような映画にはその後何度か出会うことがあった。でも高校生の頃に視た『ペリーヌ物語』の時に感じた魂を揺さぶられるような感情にはその後二度と巡り合っていないような気がする。
アニメ『ペリーヌ物語』の主題歌はyoutube上にUPされていたので入手することができた。MP3の音声データに変換して、今はクルマを運転中に聴くことができる。今でもこの主題歌を聴くとアニメの中のいろんな場面を思いだせる。もしも自分に娘がいたならきっと『ペリーヌ物語』のDVDを手に入れて見せただろう。それを見て娘が「ペリーヌのように聡明で困難に負けない強い心をもった女になりたい」と思うかどうかはわからないけれども。
先日、金曜ロードショーでジブリ映画の『風立ちぬ』を視た。もちろん封切り時に映画館でも視ているが、この映画で私が泣いた場面は二郎が菜穂子と結婚式を挙げる場面である。伝統的に伝わってきた決まり文句のように感じた結婚式の口上は、宮崎監督が考えたものだったそうだが、その場面で私は泣かされた。「風立ちぬ」は映画の形をとった純文学である。そしてせつない。大事なものを失っても人はその喪失感を抱えて生きていくしかない。『風立ちぬ』を視て泣いた自分はおそらく自分がかつて人生の中で失ってしまった多くのものに思いを馳せていたのかも知れない。
天王寺のアポロシネマで『きみの膵臓を食べたい』を視たときも泣いた。映画館を出るときに中年のおばちゃんが「あのラストはないよね」とdisっていたので馬鹿野郎と思った。なんであの良さがわからないのか。あの映画の魅力は浜辺美波がかわいいことだけではないのである。
どんなに素晴らしい映画も文学作品も、それを理解できる観客や読み手に出会わない限り駄作のままに終わる。世の中には自分が気づかないものや知らない素敵なものがいくらでも存在していて、自分が出会えるものなんてほんのわずかでしかない。でも少なくとも出会うことができたということが宝物なのである。本との出会い、映画との出会い、人との出会いもすべてそうである。
昔、俵万智さんがエッセイの中で書いておられた。人生の出会いの中で「もっと早く出会っていれば」という言い方をする人がいるが、出会わないで終わる方が圧倒的に多いことを思えば出会えたこと自体に感謝すべきだと。出会えること自体がそもそも奇跡なのだ。自分と出会ってくれた相手に対して「この世に生まれてきてくれてありがとう」と思わないといけないのだ。それほどに人生の出会いはすべてが奇跡なのだから。
でもタイミングはあると思う。自分は受験生という人生で一番不安で心細かった時、時に心が折れそうになった時に『ペリーヌ物語』に出会い、時に励まされ、ペリーヌのように困難に立ち向かう勇気をもらった。今の自分の原点は何かと訊かれたら、あの時ペリーヌが好きだったからと答えるしかないような気がする。
今を生きる若者たちの前に、かつての『ペリーヌ物語』のようなすてきな作品は存在するのだろうか。それは『鬼滅の刃』であったり、『クレヨンしんちゃん』だったりするのだろうか。
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