2020年08月18日(火) |
「普通」とは何か? |
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「普通」っていったい何だろう。たとえば高度成長の時代にモデルとされた夫婦と子ども2〜3人の核家族というのは、結婚した夫婦の4割近くが離婚に至るという事実の前に完全に崩壊した。公立の小学校では半数近い子どもがシングルマザーやシングルファーザーによって育てられているのである。そこでは「両親がそろっている」方がむしろ普通ではないかも知れないのだ。
国民的アニメ「サザエさん」のような3世代同居の家庭というのは昭和30〜40年代にはかなり存在したが、今はもうほとんどない。全世帯の1割もないだろう。そしてどんどん増加しているのが単身者世帯である。
オレの母親はオレがまだ小学生の頃にこう言った。
「勉強には貧乏も金持ちも関係ない!」
オレが小学生だった昭和40年代、確かに貧富の差はあまり関係なかった。級友はたいてい文化住宅や長屋、団地に住み、一戸建ての家に住んでるのは少数派だった。自分だけの部屋なんてないのが普通だった。そこでオレは自分のような生活環境が普通なんだと勝手に思っていた。よく夫婦げんかをしていたものの、とりあえず両親がそろっていて日々の食事の心配をすることはなかった。お盆休みや正月には家族旅行に出かけることができた。そのために両親はどれだけ苦労していたのだろうか。
しかし、みんなが貧しかった時代はいつのまにか過去のものとなった。35年ローンで一戸建て住宅を購入できるような階級と、その日の生活にも困窮している貧困家庭との格差はどんどん開いていった。家が裕福かそうでないかということで、スタートラインは違うのである。学校で平等な競争が行われているわけではないのだ。
では今は何をもって「普通」と呼べばいいのだろうか。多様性の時代でそもそも「普通」という概念が通用しなくなってるのではないだろうか。
貧しくても本が身近にあって読むことができたオレの家は決して普通ではなかったのだ。同程度の貧困家庭なら普通は親に教養がなく、高価な本など買わなかっただろう、まだ中学生くらいだったオレに白文・書き下し文・現代語訳が併記された徳間書店の「中国の歴史」「中国の思想」なんかを買ってくれた親はきっと普通じゃない。
オレはそういう恵まれた環境の下で勉強することに価値を感じることができた。学区内でトップの高校に入学できたことで、同じクラスに東大や京大を目指す仲間が存在した。目の前にいくらでも受験勉強のお手本があった。それはどう考えても「普通」ではない。そんな恵まれた環境で学べる高校生は全体の5%もないのである。大阪には今高校が269校あるが、その中で東大や京大に卒業生を送り出してる学校は1割もないのである。全体の一割以下しかない高校を普通とは呼べない。大多数の普通の高校では「受験に必要ない」という理由で漢文の授業はほとんど行われていないのである。
オレはきっと親にかなり愛され、大切にされていたのだろうと思う。今の時代は親にさえ愛されない子どもたちも大勢いるのである。虐待の中で育つ子もいるのである。そんな時代の「普通」とはいったい何だろうか。
みんな違うのである。みんなそれぞれに違った星の下に生まれてきていて、普通という範疇にくくることはできないのである。みんなが違うことを認めることからスタートしないといけない。その違いの中で何が公平かといことを考えないといけない。格差を認め、どうすればその格差をなくせるかを考えないといけないのである。
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