2020年01月17日(金) |
阪神大震災から25年 |
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神戸大学の構内には、震災で亡くなった学生の慰霊碑がある。毎年ここでは追悼行事の献花式が行われている。神戸大学では学生39人(そのうち留学生7人)、職員2人の計41人、神戸商船大学(現在の海事科学部)では学生5人(そのうち留学生1人)、研究員1人の計6人が犠牲となった。突然の地震によって人生を断ち切られた学生たちはその瞬間にどんな思いでいたのだろうか。
1995年1月17日の早朝、オレは激しい揺れを感じて目が覚めた。1分ほど続いたその激しい揺れの中でオレはこのまま崩れた家の下敷きになって死ぬのだと思った。人生の中で「自分はこのまま死ぬのか」と感じた唯一の瞬間である。
揺れが収まった時、幸いなことにオレの家は倒壊していなかった。しかし、その同じ瞬間に阪神間では多くの家が倒壊し、多くの人が家に押しつぶされて犠牲になっていたのである。次々と火災も発生し、倒壊した家の下敷きになった家族を救おうとしたが「おまえは早く逃げろ」と言われて泣く泣く家を後にした人がどれほどいたのだろうか。あの日起きた多くの悲劇の中にはそのまま二度と誰にも語られなかったことがたくさんあるはずだ。
家が倒壊して犠牲になった人の中には、いつもは二階で寝ているのにたまたまその日に限って1階で寝ていたという人が数多くいた。ほんの少しのそうした偶然が生死を分けることとなったのである。「もしもあの時・・・」というやりきれない思いを持った人は多かったはずである。
家族の中で自分だけが助かった人、肉親を失った悲しみから未だに立ち直れていない人、自分の中の時間がその日から25年間止まり続けたままの人、そうしたさまざまな想いが交錯する中で25年という歳月が流れ、震災を知らない世代の人たちがどんどん増えてきた。
記憶はどんどん風化していく。そしていつのまにかその体験を持つ人がいなくなり、いつかは忘れられていく。記憶であったものがいつのまにか歴史となり、記録としてだけ残る。震災時の映像はたくさん動画サイトにあるが、現場でその悲劇を体験した人たちにとっては封印したい記憶なのかも知れない。
地震や噴火といった災害は突然やってくる。オレがこうして書いているその次の瞬間に首都圏直下型地震や南海トラフ地震が起きるかも知れないのである。そこで生死を分けるものはもしかしたら限りなく偶然に近いことかも知れないのである。
もしも阪神大震災が2時間遅く起きていれば、新幹線は多くの乗客を乗せたまま脱線していただろうし、倒壊した駅には多くの通勤客がいただろう。犠牲者数は何倍にも増えていたかも知れない。地震はどんな時間に、どんなタイミングで全く起きるかわからない。起きてから冷静に行動できるかどうかもわからないのである。
オレは毎年この日が巡ってくるたびに、震災のことについて書こうと思っている。そうして思い出すこと、何かを書くことはオレの大切な使命である。あの日失われた多くの魂に思いを馳せながら。
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