2019年12月22日(日) |
傷つけられたものが声をあげること |
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伊藤詩織さんとの民事訴訟で敗訴した山口敬之はこのような発言をしている。
「性被害に遭った人間が笑ったり上を向いたり、テレビに出演してあのような表情をすることは絶対にない」
この発言の傲慢さ、異常さに何も気づかないとしたら、その人間は正真正銘の馬鹿であるし、世の中の多数派の「いじめ加害者」の擁護者でしかない。
性犯罪の被害に一度でも遭えば、その人は二度と笑ってはいけないのか。明るい表情をしてはいけないのか。一生その苦しみを抱えたままうつむいて生きよと言うのか。山口氏の発言はそういう意味なのである。それはいじめ加害者の側を正当化する論理でしかない。
性犯罪の加害者はたいてい相手をこのように脅すのである。
「バラされたくなかったら誰にも言うな。言ったら殺す。」
その言葉をそのまま受け止めて、そうして泣き寝入りする人がどれほど多いことか。その結果加害者は自分の行為を反省することもなく、一つの成功体験として同じ加害行為を永遠に繰り返すのである。もしかしたら山口氏は過去にそういう加害行為を何度もした経験があり、被害女性がみんな泣き寝入りしたから今回の伊藤詩織さんの件を「絶対にない」と言い切れるのかも知れない。
性犯罪の被害に遭うことは恥ずかしいことではないし、本人の落ち度でもない。それを多くの女性たちが隠さざるを得ないようなことになっていたのは、山口敬之のような人間が世間に多数存在し、被害女性たちの名誉を貶め、傷つけてきたからに他ならない。
伊藤詩織さんの事件を検察審査会が不起訴にした後、裁判で次々と多くの性犯罪が無罪とされた。娘を長期間レイプしてきた父親が、裁判官によって「合意があった」とされて無罪とされたりした。それは司法関係者が整合性を取ろうとして性犯罪一般の認定基準を変えてしまったからだとオレは思っている。日本の司法制度はクソだが、その背景にあったのがもしも伊藤詩織さんの事件との整合性を取るためならば本当にクソすぎる。
傷つけられた者たちが声を上げること、声なき者たちが訴えることが世の中の理不尽を打ち破るためには絶対に必要である。そして強者はそれをいつも踏みつぶそうとする。香港を弾圧する習近平もそうだし、お正月の休業を発表したFCオーナーを契約解除するセブンイレブン本部の傲慢である。
村上春樹さんは講演の中で訴えた。
「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。」
大きな力の前では小さな正義は無力である。しかし、オレは正義を訴える壊れやすい卵でありたい。常に弱者の側に立ちたい。
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