2019年11月05日(火) |
国語記述問題中止すべき理由 |
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オレは字が下手である。黒板に書くオレの文字はとても判読しにくいらしい。しかもオレは左利きなので文字を左で書く。だから書き順とかが正しくないのである。国語教師としてこれは致命的な問題である。しかし、オレが就職したころにワープロやパソコンが登場し、オレのような字の下手な人間でも美しい文字で印刷した教材プリントが作成できるようになった。もしもそうした技術の進歩がなかったら、オレに教わる生徒たちにとってはまことに不幸な状況だっただろう。
世の中には読めないような汚い文字、へたくそな文字を書く人が存在する。また、本人が必死で美しく書こうとしてもどうしても書けない場合もある。発達障害の中には文字を書くという部分に障害を持つ人もいる。枠内から文字をはみ出さずに書くことがどうしてもできないという人もいるかも知れない。また、文字を書くのに人の何倍もの時間がかかる人もいる。そういう事情をカバーできるのがマークシート方式の現行の入試である。機械が読み取れるかどうかというだけで客観的、公正にに判断されるのである。
昔、小樽市立文学館で目撃した石原慎太郎の生原稿は、悪筆を通り越してもはや文字ではなかった。採点時の答案にこのような文字を見れば、オレは無条件に×をつけるだろう。「読めない!」それだけの理由だ。きっと日本中の多くの受験生の中には、石原慎太郎よりももっと字の下手な猛者が存在するはずである。
センター試験の国語に記述問題を導入するということは、そういう答案にも対処しないといけないということなのである。もしも「字が上手に書けない」という障害を持った人が受験するならば、記述部分の代筆を許すのか。あるいはなんらかの道具を用いて記入可能にするのか。そのあたりの対策は全く考えられてないのである。
通常のマークシートでさえ受験生は正しく書けない。受験番号を書き間違えたり、マークする部分を間違えたりする受験生は一定の割合で必ず発生する。試験というのはミスをするものなのだ。そうしたミスをこれまでは機械的に判定できていた。しかし、記述問題を導入して人間の目で判定するということは、判定者の主観が混じるために公平な判定が不可能になるということなのである。そんな試験制度を導入してもいいのか。
記述問題は大学が個別に出せばいい。せいぜい200枚とか300枚という枚数なら一人で同一基準で採点可能である。しかし、一人で採点しきれないような枚数になれば絶対に公平には採点できない。複数の採点者の採点基準を完全に同一にすることは極めて困難だからである。
センター試験の記述問題は即座に中止すべきである。今からならまだ止められる。英語外部試験よりももっと弊害の大きいセンター試験記述問題の中止をオレは主張する。
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