2019年01月05日(土) |
橋下徹とヒトラーの類似について |
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橋下徹さんが、乙武洋匡さんとの対談の中で語ったことが今話題となっている。ネット上にある文章を引用しよう。
橋下氏は乙武氏の提案を受け「大いにありだ。今の教員免許が必要な技量を測っているものなのかを問い直すことが必要だ。加えて、そのための教育や試験の中身はどうなんだということを見なければいけない。たとえば英語の先生の免許だっておかしいと思う。“This is a pen“なんて、日常生活で絶対使わない。最低限、学ばなきゃいけないことは見えてきていると思うので、それ意外のことは選択制でいいと思う。だって元素記号やサイン・コサイン・タンジェント、どこで使うの?使ったためしがない。勉強のできる人たちは“そういうのも教養だ“というが、今はインターネットで色々なことは調べられる」と指摘。
橋下徹さんの主張はいつも極端である。彼は乙武さんの「教員免許廃止論」を受けて今の教育の問題を、教師の資質の問題として語っているわけである。そしてついでに学校教育の中身を批判しているわけだ。このような主張は大衆に受け入れられやすい。それはなぜかというと、学校の勉強で数学や理科が苦手だった人のほうが多数派だからである。そうした勉強から逃げてしまったり、努力を放棄した人たちはこの主張を聞いて「そうだそうだ、そんなものいらないし使わない。そんなもののために苦労させられたぜ」と条件反射的にこの橋下氏の主張に同意する。多数派の対極にいるのは、そうした勉強をきちんとこなして偏差値の高い大学に入ったオレのような受験秀才たちである。
受験秀才を攻撃することで、そういう人たちが教師になってるのだから今の教育はダメなんだと主張は飛躍していくのだろう。その主張は今の学校教育に批判的な人たちすべてに受け入れられやすいのである。
今の学校教育が様々な問題を抱えているのは現場の教師の責任だろうか。もちろんオレは全く責任がないとは言わないし、中には教師の努力によって解決できるものもあるだろう。オレは今の問題の多くは社会の在り方の変化によって生じたものであると思っている。伝統的なスタイルの学校教育が社会の変化に対応しきれていない部分もあるだろう。しかしオレは、その社会の変化に学校が100%合わせるべきだとは思わない。学校というのは人類がこれまで築いた学問や教養を次世代に伝え、伝統文化を守り続けるための場であるとオレは認識しているからである。
橋下さんが「数学や理科が苦手だった大衆」に迎合してこのような発言をし、そうした教養が必要だと主張するオレのような人たちを攻撃することで何を狙ってるのか。オレはそこに彼とヒトラーとの類似性を感じるのである。
ヒトラーはドイツの社会での成功者たちであるユダヤ人を排斥することでドイツ国民の支持を手に入れた。ユダヤ人排斥によって奪われた彼らの富の多くはドイツ人のものになった。ナチス党が政権を奪取する過程で一般のドイツ国民の持つユダヤ人への嫉妬の感情は巧妙に利用されていたのである。
社会の少数派を叩くことで多数派の支持を集めるというこの劇場型の手法で彼は大阪府民の支持を手に入れてきた。公務員は給料をもらいすぎだとその給与をカットし、そこで自分の給与もカットするからと自己の主張に正当性を与えた。副収入がいっぱいある人が知事報酬を削ってもたいした痛みはないが、給与所得だけに依存する大阪府の職員たちはダメージを受けた。「自分も減らしてるんだからおまえたちも我慢しろ」という巧妙なレトリックで府の職員たちは反論を封じられたのである。
大阪市バスの運転手の給料が民間に比べて高すぎるという理由で給与が下げられた。どうして「バス運転手」という人の命を預かる職業の専門性を評価しなかったのか。バス運転手が過労運転の末に事故を起こし、多くの人命が失われてきたのはなぜか。それは社会がこの職業の価値に対して正当な評価を与えてこなかったからではないのか。安い報酬で使い捨てられるような扱いの中でどうして乗客の安全が守れるだろうか。
「あいつらの給料が高いのは許せない」という大衆の怒りは、国会議員や政治家、そして労働者を労働資源としか考えていない大企業の経営者に対してこそ向けられるべきである。本来は連帯し合わないといけない大衆の中で嫉妬したり仲間割れしたりしてどうするのか。
教育の問題は教員だけの責任ではない。今もっとも道徳を問われているのは政治家ではないのか。総理大臣が国会で堂々とウソをつき、知ってるはずのことを「記憶にありません」と答えている。国会議員は常に保身しか考えず選挙で当選することだけを目的としている。こういう連中が国政を動かしてるという状況でどうして教師は生徒たちに道徳を説くことができるだろうか。大人たちの社会でいじめやパワハラが横行しているのに、どうして学校で教師が「いじめをしてはいけません」と言えるのだろうか。
橋下氏の扇動に乗せられ、「だから今の教育はおかしい」と安易に同意してしまう人たちに対してオレは言いたい。おかしいのは正義や正論が通用しなくなった今の政治状況である。現場で疲弊している教員たちをスケープゴートにしても何も変わらない。大阪府の公務員の給与が減らされ、教員の給与も減らされた結果教員採用試験の倍率は低下し、病気や過労で休職した教員の補充は非正規雇用で穴埋めされるようになった。ボーナスも支給されず、将来の保証もない非正規雇用の教員に多くの責任が負わされてるのである。
橋下氏の「教員叩き」と、ヒトラーの「ユダヤ人排斥」はどちらも社会にスケープゴートを作って多数派の支持を得るという点で同種のものである。労働者たちが「おまえらの給料は高すぎる」と足を引っ張りあい、仲間割れすることで誰が得をするのか。それは企業経営者である。みんなの給料を上げるために連帯すべきなのに、そこで足を引っ張りあってどうするのか。
学園紛争で東京大学の入試が中止になった昭和44年、東京大学の安田講堂にはこのような落書きが残されていたという。
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」
オレは連帯したい。生徒のために必死で働いて教育現場で苦しんでいる人たち、非正規雇用でワーキングプアに苦しむ人たち、そして今の理不尽な社会を変えようとして頑張っている人たちと。
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