2018年09月17日(月) |
映画「響-HIBIKI-」はアイドル映画ではない |
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平手友梨奈が主演ということでアイドル映画として話題となっている「響-HIBIKI-」を映画館で観た。とにかく面白かった。ヒロインの突拍子もない行動が一種の爽快感で受け止められる、そんな躍動感のある映画だった。
オレは文学賞の審査員が作家というのが不思議でたまらない。どうして同業者に選ばせるのか。彼らはプロの書き手であっても読み手ではない。この世にはさまざまな作品の良し悪しを判定できるプロの読み手が存在するとオレは思っているし、かくいうこのオレもそうした読み手のプロの一人であると自負している。筒井康隆も文壇の状況をネタに似たような意味のことをかつて書いていたが、もしもものすごい才能を秘めた新人作家が登場した場合、もうアイデアも枯れ果ててつまらないものしか書けなくなった老大家の持つ感情というのはただの嫉妬であり、そんな奴がデビューしたら自分の取り分が減ってしまうという危機感である。だから彼らは候補者の中からライバルたり得ないような小物を受賞者として選ぶのである。
15歳という若さで並外れた才能を秘めた文学少女、鮎喰響(あくい・ひびき)がこの作品のヒロインである。彼女の作品を読んだ誰もがその才能に驚愕し、文句なしにその作品の面白さを認める。しかし、彼女はそうした世間の評価には無関心なのだ。本の価値は自分にとって面白いか面白くないかだけであり、世間がどう感じるかよりも自分がどう感じるかが大切だと訴えるのである。そして自分に向かって暴言をぶつける相手、友人を傷つける相手に対しては容赦しない。
平手友梨奈はかわいい。オレはこういう美少女が好きだ。ヤクルトミルミルのCMを観ているだけで心が癒され、ミルミルを飲みたくなる。しかし映画の中で彼女が演じる性格は全くかわいくない。こんな女を彼女にしたらどれだけ大変だろうかとハラハラするのである。かわいい女に、とてつもなくハードボイルドな役を演じさせるという点にこの作品の魅力があるのである。
オレは平手友梨奈を映画に初主演させるにあたって、ベタベタな恋愛映画ではなくてこのようなとんがった作品を選んだその見識を大いに評価する。彼女を通常のアイドルの枠にはめこむのではなくて、もっと別の何かとして描きたかったその試みに拍手を送りたいのである。
オレはこの映画がとても面白かった。もしもこの作品をただのアイドル映画としてしか鑑賞することができず、その本質を理解せずにヤフー映画で☆1個なんて評価を下す馬鹿がいれば、おまえなんかのようなカスが映画を語るなと言いたいのである。
作家が全力で書いた作品世界を理解するためには、自分もそのレベルにまで魂を到達させないといけない。凡庸な読者が理解に到達できるのは凡庸な作家の作品だけである。天才の作品を前にして、凡庸な人間はその価値のほんのわずかな部分しか理解できていないくせにわかったような口で「感動した」などとほざくのである。
「響-HIBIKI-」の中にはさまざまな伏線がある。それらの意味をていねいに理解して鑑賞できる人がどれだけいるのだろうか。多くの連中はそれに気づかずにスルーしてしまうのである。オレはそれが残念でならない。
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