2018年01月08日(月) |
成人式ではなくてDQN式である |
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テレビで九州のある都市の成人式の模様を中継していた。確かここは暴力団工藤会と住民との対立が問題となっていて、組事務所に反対運動する住民が襲撃されたりする大変な街だったはずである。
暴力団が盛んに活動できるということは、その人材の供給源となるDQN人口が多いということである。もちろん北九州市以外の地域から流入するDQNもいるかも知れないが、そのDQN率の高さをオレはテレビで中継される異様な新成人たちを見て確信したのである。これは断じて「成人式」などではない。もはや「DQN式」と呼ぶべきではないのかと。
成人式の会場で式典が始まっても、奇抜なスタイルの新成人たちは会場内に入らずに外にたむろして騒いでいる。いつのまにか飲酒する者がいたり、小競り合いが始まったりとまさにDQN祭の惨状なのである。まじめに市長様のお話を聞くなんて新成人はその異様なスタイルのDQN集団の中にはいない。
この異様なスタイルの成人式の背後にはその衣装を提供する業者が存在するわけで、ブームは実は作り出されたモノである。「DQNスタイル=カッコイイ」という刷り込みを与えることでそれをビジネスモデルとして成功させたのである。成人式の日のためにDQNたちは何十万もゼニを使ってその異様なファッションを身につけることになる。
ただ、何がカッコイイと思うかは確かにそれぞれの自由である。その歴史的な意味も全く理解せずにナチス親衛隊のコスプレがかっこいいと思うヤツもいるだろうし、少し前にはオリンピックの選手団の制服を着崩して腰パンにしていた馬鹿がいた。ああいう馬鹿を見ていてオレが思ったのは、いくらオリンピック選手でもこれは日本の恥だということだった。オレがふだん街で中学生や高校生を見ていて思うのは、制服をだらしなく着ているヤツは大人たちの目には馬鹿にしか見えないということである。もちろん頭の中味は見ただけでは判定できないのであり、本当に馬鹿かどうかはわからない。ただ、普通の頭の中味ならそんな格好をしてると馬鹿に見えるということは常識的にわかると思うのだ。もしかするとそんなこともわからないほどに馬鹿なのかも知れない。
その数十万の衣装代をたとえば何か勉強して資格を取るために使うとか、あるいはしっかりと貯金したり堅実な株式に投資したりしたら自分にとっての貴重な財産になる。しかし衣装代に使うことはパチンコに使ってることと同じでただの浪費である。若者にとって貴重なお金が、そうした意味のないことに消えてしまうのである。
暴走族がクルマを改造するのにむちゃくちゃお金を掛けたりするのはいかにもDQNらしい行動である。その「カッコよさ」というのはたとえば千葉や茨城の暴走族が付けてる竹槍みたいなマフラーであるとか、ただ空気抵抗を増してるだけの意味のないエアロパーツとかであって走行性能を向上させるものではない。彼らの中だけで価値のある文化である。馬鹿なことや意味のないことにゼニを使えるのがDQNの誇りなのだ。
日本の成人式は放置すればこのようなDQN式になってしまうのだろうか。日本中で散見される「荒れた成人式」というものも、会場内にそうしたDQNを無理に入れようとするからであり、九州の某市のようにそもそも会場内に入ってこないで外でDQN同士で騒いでるだけなら全然問題ないのである。
いっそのこと、成人式とDQN式を分離して行えばいいのである。「成人式会場」「DQN式会場」とそれぞれの場所を明示して、自分がちゃんとした新成人と思う者は成人式へ、自分が奇抜な格好をしてはじけたDQNと自負するならDQN式に出ればいいのである。分離すれば何の問題もないわけだ。
DQN式の来賓にはDQN文化の代表である人たちを招けばいいのである。世の中には正真正銘のDQN気取りがいくらでもいる。ASKAとか、清原和博とか長渕剛とかを呼んだらいいのである。
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