2017年03月28日(火) |
この世に安全な冬山登山などない |
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栃木県の高体連が実施した冬山登山の訓練で雪崩が発生し、8名の犠牲者が出た。オレは2000年3月5日に起きた、文部科学省の登山講習会で発生した大日岳での遭難事故を思い出していた。尾根筋にできた雪庇の上で休憩を取っていたところ、突然その雪庇が崩落して雪崩となって巻き込まれた人の中で2名が犠牲となった遭難事故である。
この世に100%安全な冬山などない。雪が積もっていれば雪崩の危険性はいつもある。目の前の雪の壁は崩れないかも知れないし崩れるかも知れない。それは全く予見できない。南極の大きな氷河が崩落する瞬間が誰にもわからないように。
雪の中をラッセルして進む訓練というのは、オレがまだ公立高校で教員だった頃に山岳部の顧問として経験した。見渡す限り雪雪雪の真っ白な世界である。今ならGPSなどという便利なモノがあるが30年以上前の当時はそんなものはない。ベテランの顧問の先生の後を歩きながら、「どうして道がわかるのだろうか」と不思議に思ったことを思い出す。今回訓練中だった高校生たちは、視界の乏しい吹雪の中を歩いていて、いつのまにかスキー場の敷地からはずれて山側に入り込んでいたという。そこに過失があったのかなかったのかはわからない。
コースをはずれても必ず雪崩が起きるわけではない。今回は運悪く雪崩が発生する時間に歩いてしまって遭難事故につながったわけだが、それが1時間後ならばすでに雪崩が起きた後だったことになる。だから不幸な事故だったと言うしかない。かつて山岳部顧問として生徒を引率して登山したことのあるオレは、指導者たちの責任を問う気にはなれない。遭難したいと思って引率している人など誰もいないと思うからだ。
人の行動には間違いが起きる可能性がある。今回の訓練がもっと下の方で行われていたら、つまりスキー場のゲレンデ中央部なら雪崩が発生した山の斜面から離れていたら安全だったかも知れない。しかし過去にはスキー場で起きた雪崩事故で死者が出たこともある。「ここなら安全だろう」というのは単なる憶測でしかない。
ただ、「雪崩注意報」が出ていたということをどうして今回の指導者たちは無視したのだろうか。オレが一番引っかかるのはそこである。どうして「勇気ある撤退」という判断ができなかったのかということだ。前も見えないような吹雪の中でどうして訓練を決行したのだろうか。そこに「これくらいで中止したらカッコ悪い」などという前近代的な体育会的な論理が働いていなかっただろうか。
今回の栃木県の遭難事故が、未来ある若い高校生たちの命が失われる不幸な結果となったことはまことに残念と言うしかない。遺族の方々の悲しみはどれだけ大きいかとオレはやりきれない気持ちになる。悪天候の中で強行された訓練ということを考えれば高体連の側の過失責任というものが問われても仕方がないし、むしろその責任は問われるべきだろうとオレは思うのである。これだけの事故が「過失はなかった」という決着ではとうてい納得できない。2000年3月5日の大日岳の遭難事故の時も、文部科学省が「過失はなかった」という報告したために遺族が納得できずに賠償を求める民事訴訟を提起したのである。
栃木県教委は今回の遭難事故を受けて高校生の部活動での冬山登山を禁止するという。その決定自体は正しいと思うし、禁止しているのに活動すれば今度はその学校が責任を問われることとなる。
冬山登山は常に危険と背中合わせである。お正月に悪天候になれば必ず多くの遭難事故が発生する。そんなことは毎年のことなんだが、だからといって「冬山登山」そのものが法律で禁止されることはない。富士山は冬季は一般の登山者は入れないことになってるが、外国人は平気で登っている。もちろん天候が急変すれば遭難の可能性は高い。夏山でさえも、登山道には手すりなどないからちょっと足を踏み外したり滑ったりするだけで転落して死ぬこともある。
オレは亡くなった若者たちのために祈りたい。君たちがかなえたかった夢とはいったい何なのか。そんなことを思って教壇に立っている。かつて山で命を落とした教え子たちの無念を思いながら。
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