2013年10月21日(月) |
「エロ」からはじめる読書入門 |
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蓄積された読書体験は宝物である。特に受験生が現代文の問題を解く場合、小学生・中学生の頃に豊かな読書体験を積んでいるかどうかは非常に大きな差となってしまう。その精神年齢に応じて、子どもは本を読まないといけないのである。読解力はその読書量に比例する。読書偏差値を上げないと、難しい本は読めないわけだ。
ただ注意しないといけないのは、読書偏差値を高める本と低める本が存在するということである。読書偏差値を高めるのはいわゆる「古典」と呼ばれる古くから愛されて定評のある本であり、偏差値を下げるのは「ラノベ」や「ケータイ小説」というたぐいのものである。ラノベをいくら読みまくっても国語力には全くつながらない。それはなぜかというと、読めば読むほど「ゆっくりと文章や内容を味わって読む」という能力が奪われるからだ。
だから親が現代文の点数が取れるような子どもを作るためには、小学生の頃にDSとかスマホとかを与えてはならないのである。与えてもいいのは古今の名作である。小学校の低学年の頃には宮沢賢治とか安房直子とか新美南吉とかを読ませ、学年が上がると芥川龍之介やO・ヘンリーの短編を読ませ、中学生になれば「こころ」や「金閣寺」が読めるくらいに徐々に難易度を上げていくのである。見せる映画も肝心だ。「小公女セーラ」や「ペリーヌ物語」や「秘密の花園」といった心温まるヒューマンドラマを見せないといけないのである。どんなに間違っても「バトルロワイヤル」とか「悪の教典」を見せてはならないのである。それまでの努力が灰燼に帰すのである。
そして本格的な評論を読む前には歴史をきちんと理解することが必要だ。日本史や世界史の正しい知識を身につけた上で、小説以外の本を読めばいいのである。歴史の学習は我々の社会がどのようにして成立したのかを理解する重要な手がかりだからだ。
大学受験の勉強というのは、それだけが「受験勉強」として単独に存在するのではない。それは小学校の頃からの教室での学習の延長線上にある。すべての学問はピラミッドのように積み重なっていくのである。小学校の時にろくに授業を訊かずに分数の割り算もできなかったヤツがいきなり高校の数学から理解できるようになるなんてことはなく、積み残してきたものはちゃんとやり直しておかないといけないのである。
たとえば数学ならば「中学3年分の数学が14時間でマスターできる本―きちんとわかる・スラスラ解ける総復習 通勤・通学電車の60分で頭の体操」というたぐいの本は遅れを取りもどすにはかなり有効だ。
しかし国語にはそんな名案はない。そもそも国語力というのは生活すべてが学習につながってるのである。両親が諍いの絶えない複雑な家庭環境に育った子どもが、異常に現代文、特に小説の問題の読解力に優れている場合がある。オレが昔勤務していた公立高校で、就職志望だった生徒が現代文の実力試験で学年1番の成績を取ったことがある。彼女はとても複雑な家庭環境で、幼い頃から大人たちの争いを目の当たりにして育ってきた。それは彼女の文学的感受性を育てていたのである。もちろんわざわざ作為的に不幸な家庭を目指すわけにもいかない。小説を数多く読むと言うことはその疑似体験を積むということなのである。
「ごんぎつね」を読んで悲しくて泣く生徒もいれば、「ごんは悪いことをしたから撃たれて当然」という感想を書く子どももいる。後者のような子どもが最近は増えてきたのだという。ただ、本を好きになるためには、悲しい物語を読んだときに思わず涙がこみあげてくるような感受性こそが必要なのだ。読書が好きになることがすべてのはじまりなのであり、読書を苦行と思うような子どもはもはやその時点で国語学習の神から見放されているのである。
小学6年生の時の担任だった教師は、オレに志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」という本を読めと勧めてくれた。なんでもオレはその「清兵衛」みたいな少年だからという理由である。その文庫本は短編集だったので、オレはそこに掲載された他の作品もあわせて読むこととなった。「小僧の神様」は平易な内容だったが、「網走まで」という短編はどうもそのときは意味がわからなかった。それから松本清張も勧められたので、「点と線」や「ゼロの焦点」などを読んだ。「わるいやつら」という本がものすごくエロくて母に叱られた。(オレはそのエロさもけっこう好きだった)。
中学生の時、友人が読んでいた星新一の「ボッコちゃん」という本が面白くてSFショートショートを読みあさり、そこから本格SFも読むようになった。小松左京の「果てしなき流れの果てに」を読んだのはその頃だ。まだ中学生の頃にそんな難しいSF小説を読んでいたのである。またオレが中国の古典に興味を持ったので、母は徳間書店から出てる「中国の古典」というシリーズの本を買ってくれた。それで全6巻の「史記」を読むこととなった。白文・書き下し文・現代語訳の併記だったが、書き下し文を読みながら「それがこういう意味になるのか・・・」と理解することを楽しんだのである。高校の時の実力試験の漢文の問題で「史記」の中の知ってる文章が出てくれたおかげでびっくりするような点数がとれたこともある。
とにかく本を読むことが大好きだったオレは、ものすごく大量の読書経験の中で知識を積み重ねていったのである。我が家にはなぜか集英社の全88巻の日本文学全集があった。その中にはいくつかエロい作品もあった。川端康成の「眠れる美女」がなぜかその中に入っていて、オレはものすごく興奮して読んだことを覚えている。人間やはり誰しもエロには興味があるのだ。オレが我が家の「日本文学全集」を読み始めたのは、その中にわりとエロい本があって楽しめたことも大きかったのである。もちろんその中の夏目漱石や森鴎外も読んでいたのだが、三島由紀夫の「憂国」なんかはものすごくエロいと思ってオレはのけぞりつつ愛読したのである。坂口安吾もその全集に入っていた。「夜長姫と耳男」や「桜の森の満開の下」のエロスの世界もオレには強烈な印象を与えた。
こんなふうに書くとオレの読書体験がまるでエロしかなかったように勘違いされるが、エロに興味があるのは思春期の男子としてはありふれたことである。そしてエロには無関係の小説ももちろん読んでいた。濫読していたSF小説がそうだ。SFだけではなくて大藪春彦や西村寿行のハードボイルドも読んだ。その中には少しエロいものももちろんあった。
ただ、大学受験の迫った一年間はあまり小説は読まなかった。受験勉強が忙しくてあまり小説を読む時間はなかった。ただその頃も大藪春彦の「野獣死すべし」は気に入って何度も読み返していた記憶がある。あちこちに線を引いてとても大事にしていた。オレが文学部という進路を選び、「放蕩無頼」という生き方を夢見るきっかけとなったのがその小説の影響であることは否定できない。
ただオレは物書きとして生きることもなく、太宰治のように心中することもなく、織田作之助のように夭折することもなかった。京都大学を卒業したオレは南河内の田舎教師となって社会人生活をスタートさせたからである。そこから紆余曲折もあったが、今こうして私学教員として教壇に立っているのである。
オレが「エロへの興味」から読書の世界にどんどんハマっていったのは事実である。しかし結果としてそれはオレの読書偏差値を高めることにつながったのである。じゃあどうすれば国語力が上がるのか。それはやっぱりエロから入るしかないのかも知れない。すべてはエロに帰着するのである。はじめて三島由紀夫の「潮騒」を読んだときに、嵐の夜にたき火をはさんで濡れた服を乾かす二人が向かい合うシーンで、読んでいるオレがどれだけ興奮したかは説明するまでもないのである。「その火を飛び越えて来い!」そんなことをしたら陰毛が焼けるのである。
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