2013年04月04日(木) |
なぜきみは英語ができないのか? |
携帯用URL
| |
|
どうかお読みになる前に←応援のクリックをお願いします! m(_ _)m
高校受験の時、オレは高校入試の英語の問題集を「解けない問題がなくなる!」まで取り組んだ。高校受験レベルの英語の基本的な知識に関して100%わかることを目標にしたのだ。それがオレの英語力のベースとなっている。今でも高校受験レベルならほぼパーフェクトに解ける。数学も同様だ。新聞に掲載される公立高校の入試問題を見てもできない問題は滅多にない。「基本を固める」というのはそういうことではないのか。大学受験の勉強というのはその土台の上に構築されるものではないのか。
ところが偏差値50程度の受験生というのは、高校入試レベルでせいぜい6割や7割という程度の正解率で受験の関門を通過するのである。そこで9割以上とって進学する偏差値70レベルの受験生とは決定的な差が存在するのだ。そして高校に入学してからそのギャップを埋める機会はない。そのまま高校の教科書に取り組み、中にはそのまま大学受験の勉強に入る者も出てくるのである。
そういう受験生はえてして文法問題が苦手である。なぜか。文法問題というものは偏差値の高い生徒にとっては単なる得点源でしかないのだが、偏差値50レベルの受験生は「面倒なのでちゃんと覚える気にならない」分野であり、穴だらけの知識のままでスルーしてきてしまった世界なのである。そして基本的知識の欠落は時に驚くべき無知ぶりを生むのだ。たとえば動詞の不規則変化がわかってなくて、「go」の過去形を「went」ではなくて「goed」と書いたりするのである。(たぶん日本の高校生の2割くらいはそのレベルだろう。)
生徒のほとんど全員が大学入学を目標とする、いわゆる進学校の通常の学習の中で、中学でやり残したことをていねいに復習してくれるような時間はない。そういうやりなおし学習は自分で自主的に取り組むか、あるいは専門の塾に行くしかない。しかしその重要性を考えずに、大学受験には大学受験の参考書を・・・という考えで基本という土台が脆弱なままに大学受験のための勉強に取り組むのである。ろくに英文を読まないのにせっせと単語だけを覚えるなどという間違った受験勉強に邁進するのだ。
オレが高校で出会った、ガッツ石松に似た英語教師はこう言った。「文法問題に強くなりたいならば書き換え問題や正誤問題をとことんやりなさい。」オレはそのアドバイスに従い、手に入れた文英堂シグマベストの正誤問題や書き換え問題の問題集を「その一冊すべてどこでも正解できるように・・・」取り組んだのである。結果的にオレは文法問題を重要な得点源にできるようになった。長文問題に取り組む際に必要な基礎力を知らず知らずのうちに固めることができたのは高校一年で習ったその教師のアドバイスが大きかったと思っている。
わからなくなればわかっていたところまで戻ればいいのである。ところが多くの受験生は知識を断片としてとらえていて、自分のわからなかった知識をピンポイントで拾うことで満足する。体系的に理解しようとは決してしないのである。
入試科目には「有限科目」(必要な知識に限りがある)と「無限科目」(何が出題されるかの範囲が無限に広がっている)があるとオレは思っている。理科や社会やセンター試験の数学や高校入試の英語は有限科目であり、現代文や大学受験の英語や京都大学の数学は無限科目である。無限科目で満点がとれることは非常に難しく、仮にとれたとしてもそれはかなり運が良かったということであり、なんとか努力して8割9割のレベルを目指すしかないわけだが、有限科目では100点満点を狙いに行かないといけない。
受験生だった頃のオレは、共通一次の模試で理科や社会や数学ではいつも満点を狙っていた。高校3年の時の実力試験の物理で100点だったのに、全教科トータルの成績が学年1位のヤツ(彼は現役で東大文一に入った)も物理はオレと同点だった。成績優秀者の貼りだしでオレの名前がそいつの下に書かれていたのはとても悔しく「あいうえお順ではぼくの方が上です!」と先生に抗議したことを思い出す。
センター試験の英語で6割しかとれない、偏差値50レベルの受験生というのはおそらく基本となる中学英語のレベルが穴だらけだ。きっと文法問題が苦手なはずである。正誤問題や書き換え問題を「めんどくさい!」と放り出すタイプである。
恥ずかしがらずにやさしい問題を100%正解できることから始めよう。「ここは全部わかってる」というレベルになろう。英語ができない生徒を見ていて思うのである。「おまえこんなやさしい問題でも間違うのになんでそんな無理して難しいことやってるんだ?」土台がしっかりと完成していないと、ピラミッドのような建築物は造れないのである。
←1位を目指しています! m(_ _)m 投票博物館