2013年01月20日(日) |
昭和の名横綱といえば大鵬である |
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人生には無数の「もしも」が存在する。のちに昭和の名横綱、大鵬となる納谷幸喜少年は、樺太からの引き揚げ船に乗っていた。その船で小樽まで行くつもりだったが、船酔いがひどかった彼の母は稚内に寄港した時に家族を連れて下船してしまった。もしもそのま小樽まで乗っていれば、相撲界の歴史は全く違ったものとなっていただろう。なぜならその引き揚げ船はソ連軍の魚雷攻撃を受けて撃沈されてしまったからである。
船を稚内で降りたあと、彼の一家は弟子屈で暮らすことになる。彼が二所ノ関部屋に入門したのは1956年、16歳の時である。それからの彼の活躍は同時代の誰もが知るところである。オレが物心ついてテレビで相撲を見るようになった頃、大鵬はすでに横綱の地位に君臨していたのである。ただ、オレは大鵬の強さに少し反発していて、実は玉の海のファンだったのだが。
大鵬の父はウクライナ出身なので、彼にはロシア人の血が流れている。日本のプロスポーツを代表する存在が実は外国人の血が流れていたというのは、野球界で王貞治や張本勲の例と同じようになかなか興味深いことである。前人未踏の400勝を達成した金田正一、日本のプロレスの礎を作った力道山、沢村栄治亡き後の巨人軍のエースだったスタルヒン、みーんな日本人ではないのである。もっとも今の相撲ほど完全に外国人に支配されてしまったスポーツもまた極端だが。日本人の横綱は今後もう出なかったりして。
読売新聞の記事を引用しよう。
元横綱・大鵬の納谷幸喜さん死去…優勝32回
大相撲で最多32度の幕内優勝を誇り、横綱柏戸(1996年死去)とともに「柏鵬(はくほう)時代」を築いた第48代横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが、19日午後3時15分、心室頻拍(しんしつひんぱく)のため、都内の慶応大学病院で死去した。72歳だった。
告別式などは未定。
納谷さんは2日前に入院したが、19日朝は関係者に電話連絡するなど意識もしっかりしていた。その後容体が急変したという。
樺太(現ロシア・サハリン)生まれ。父はウクライナ出身で、戦後、母や兄、姉と北海道弟子屈(てしかが)町に移り住んだ。1956年、16歳で二所ノ関部屋に入門、秋場所で初土俵を踏んだ。十両昇進と同時にしこ名を大鵬に改め、60年初場所で新入幕を果たした。その年の九州場所後に大関に昇進。大関5場所目だった翌61年秋場所で柏戸との決定戦を制して3度目の優勝を飾り、柏戸とともに横綱に昇進した。21歳3か月での昇進は当時、最年少記録だった。
全盛期の大鵬は、強さの代名詞となり、子どもが好きなものを意味する「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も生まれるなど、国民に愛された。
2度の6連覇や全勝優勝8度など、数々の偉業を達成。連勝記録は69年春場所2日目、前頭筆頭の戸田に敗れて45で止まったが、この一番の判定が「世紀の大誤審」と騒がれ、日本相撲協会は翌場所から勝負判定にテレビのVTRを用いるようになった。その夏場所で通算30度目の優勝を飾った大鵬に対し、協会は初の一代年寄「大鵬」を贈ることを決めた。71年夏場所途中で引退。通算成績は872勝182敗136休。協会理事などを歴任後、2009年、相撲界から初めて文化功労者に選ばれた。
(2013年1月19日22時45分 読売新聞)
名門、二所ノ関部屋の消滅とほぼ時を同じくして大鵬が亡くなったということは、相撲界の一つの歴史が終わったということである。NHKの相撲中継で18時が近づくと大鵬の取り組みを見るためにみんなテレビの前にやってきた。大鵬が連勝記録を伸ばすことをみんなが楽しみにしていた。
確かに千代の富士や朝青龍も強かったかも知れない。しかし大鵬の人気は桁外れだった。「巨人・大鵬・玉子焼き」と呼ばれたように相撲界が最初に実現した国民的ヒーローが大鵬だったのである。(双葉山という説もあるが、オレは双葉山の現役時代を全く知らないのでオレにはその頃の雰囲気はわからない。)
強さだけなら他にも強い横綱はたくさんいた。しかし、大鵬には他の横綱にはない独特の品格があった。朝青龍のような無法者とは対極の存在だったのが相撲界の紳士、大鵬だったのだ。
今は完全にマイナースポーツになってしまい、このままいずれ伝統芸能のような世界になってしまうことがほぼ確実な相撲にも、かつて野球と人気を二分した時代があった。相撲が輝いていたあの時代、その中でも最も光り輝いた横綱と言えばそれは大鵬、まぎれもなくあなただったのだ。その現役時代の戦いぶり、圧倒的な強さはオレの記憶の片隅にちゃんと残っているぜ。
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