2011年12月08日(木) |
貧困の中で生きるということ |
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「絶対貧困(世界リアル貧困学講義)」という本を読んだ。一日1ドル以下で暮らす人々が世界に12億人もいるという。本書は世界の路上生活者やスラムで暮らす人々について詳細に取材して書かれている。オレはこれを読んで「日本の貧しい人々は恵まれてる」というありきたりの結論に持って行くつもりはない。日本では「悪」とさえることであっても、それが貧しい国では決してそうとは断定できないという状況に打ちのめされるのである。
「物乞い」として生きていくためには哀れさを強調しないといけない。そのために元締めは子どもの腕を切り落としたり、顔に傷を付けたりする。そうして悲惨な境遇で生きていることと、生まれたばかりで口減らしのために「処理」されてしまうことと、どちらがマシだろうか。不幸な境遇と、より不幸な境遇を比較しても意味のないことだが、我々にできることはそうした事実を知ることであり、受け止めることしかないのだ。
まだ若くて働く能力はあっても毎日をパチンコやギャンブルで過ごしている多数の人々がいる。生活保護費として受給したゼニをすぐに闇カジノで使い果たしてしまう人もいる。日本では「貧困」が即生命の問題に関わることはない。それは日本が文明国という意味だろうか。オレにはその姿は「退廃」としか思えないのである。
必死で稼がないとその日の食い扶持にもありつけない最貧困の世界で暮らす人々のことを知ったところで、我々に何ができるのだろうか。病気で死ぬ子どもを減らそうとして医療支援を行えば、それはさらなる人口増加を生み出してさらにその国を貧しくすることに結果的にはつながってしまう。
オレは「貧困」を生み出す原因は「豊かさ」にあると思っている。文明社会の圧倒的な豊かさは、そのおこぼれだけでも暮らせる多くの民を生み出してしまった。自分たちの食糧を自分たちで生産できずに、食糧支援に頼るしかない多くの人々を生み出した。今、必要なのは「どうすればみんなが喰えるようになるか」ということではないのか。
なぜアフリカの人々は飢えているのか。かつてはどこも豊かな農業国だったのにそれを破壊したのは誰の責任なのか。もっとも大切なことは、その土地の人々が食べるモノをその土地で生産することではないのか。
オレはTPPには基本的に反対の立場である。食糧はできるだけそれぞれの国が自給する体制が望ましいと思っている。日本の工業製品を売りたいために、将来へのリスクを背負うべきではないし、それがアジアの多くの国の農業を破壊する可能性があることに目を向けるべきだ。危機は日本だけの問題ではないのである。
コメの生産量が落ち込んだのは消費が減ったからだという。その生産力の余剰分をどうして世界に放出することを考えなかったのか。食糧を生産できる余力がありながら使わなかったために、今日本はどんどん食糧を自前で確保できない国になってしまったのではないか。日本にとって必要なことは、輸入する食糧分くらいはきちっと輸出して、収支の帳尻を合わせておくことだったのだ。おかすは海外から買ってもごはんは輸出できるくらいに自給率を上昇させることではなかったのか。
いつか本当に喰えなくなったときに、日本は世界の最貧国になるだろうか。日本という国家の未来を考えたときに、何のビジョンも持たない政治家たちに対してオレは深く失望するのだ。
「絶対貧困」
ルポ 餓死現場で生きる
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