2011年05月18日(水) |
「アタック25」挑戦の思い出 |
携帯用URL
| |
|
どうかお読みになる前に←応援のクリックをお願いします! m(_ _)m
オレが「アタック25」に出場したのは今から15年以上も前のことである。司会の児玉清さんがとても背が高かったことを覚えている。そして、解答者一人一人にとてもやさしく声を掛けてくださったことが印象的だった。せっかく答えても自分の取ったパネルがひっくり返され続けという展開でクイズの結果の方は思わしくなく、はじっこを確保してこれで勝てると思ったのに、なんと自分の確保したそのはじっこが「アタックチャンス」で奪われてしまうなどという悲劇もあって、次々と自分の色のパネルがひっくり返されて結局8枚しかとれずに負けるということになった。最後の旅行の問題、歴史の問題だったのであっさりと答えがわかったのに優勝の方は苦手分野だったようで答えられず「わかりません」と答えたのも悔しかった。その出場以前にも「クイズミスターロンリー」で5人勝ち抜いてチャンピオンになったり、大学生の時は「世界一周双六ゲーム」という番組で全問題の7割くらいを一人で答えたりしたこともあった。
クイズ番組によく出ていた頃と今を比較するとやはり記憶力の衰えが著しい。アイドルの名前も昔は簡単に覚えることができたのだが今は全然ダメだ。「モーニング娘。」の最初のメンバーはすぐに覚えられたが、AKB48は3人ほどしかわからない。スポーツ新聞も購読していたし、クイズ番組の予選はいつもペーパー試験なので楽勝だった。テレビの前でいつもほとんどの問題を正解している自分にとって、そうしたクイズ番組というのはいい小遣い稼ぎだった。「クイズミスターロンリー」には結局3度出場している。当時史上最強のクイズ王と言われた永田喜彰さんの著書を持っていたので、クイズ番組の予選でお会いしたときにサインしてもらった。そのときに永田さんがオレの名前を覚えていてくれたことがとても嬉しかった。クイズ王の記憶力というのはこんなどうでもいい人名まで覚えてるんだと感心したものである。
仕事が忙しくなって、クイズのお勉強をするような余裕もなくなり、また視聴者参加型のクイズ番組も「アタック25」を残すのみとなった。1000万円当たるという「ミリオネア」だったかは応募してみても電話が全然つながらなかった記憶がある。そのうちクイズ番組は芸能人が解答者のバラエティ番組へと変化していったのである。
芸能人が難しい漢字の読み書きに挑戦しているクイズ番組を見ていると、息子が「おとう、答えわかるんか?」とよく訊いてくるので、いつも息子の求めに応じて答えてやる。すると息子は「おとう、宇治原と勝負したら勝てるんか?」とまじめに質問してくるのである。どうやら息子の頭の中には「頭のいい人=宇治原」という図式ができあがってるようである。国語教師として漢字の問題で絶対に負けるわけにはいけない。こちらはプロなんだから。
「アタック25」出場の時にお世話になった司会者の児玉清さんがお亡くなりになった。その訃報を聞いて、改めて昔のことをいろいろと思い出した。
「アタック25」児玉清さん、胃がんで死去
テレビ朝日系「パネルクイズ アタック25」の名物司会者としても親しまれた俳優の児玉清(こだま・きよし、本名・北川清=きたがわ・きよし)さんが、16日午後0時28分、胃がんのため亡くなった。77歳だった。
告別式は21日午前11時30分、東京都文京区大塚5の40の1護国寺桂昌殿で。喪主は妻、北川好子さん。
児玉さんは2月下旬から体調不良を訴え、都内の病院で検査したところ、胃がんが見つかり、3月下旬から入院していた。
東京都出身。1958年の学習院大学卒業後、東宝ニューフェースに合格した。しばらくは端役が続いたが、61年の堀川弘通監督の「別れて生きるときも」でヒロインの初恋相手役を好演した。67年にフリーとなり、丸山誠治監督の「日本海大海戦」、今井正監督の「妖婆」などに出演し、誠実で温厚な二枚目俳優として知られるようになった。
(2011年5月17日19時27分 読売新聞)
体調不良で番組を降板していたことは聞いていたが、それからあまりにも急である。「胃ガン」がわかったときにはすでにかなり悪化していたのだろうか。「アタック25」の番組収録が終わった後で、勝てなくてがっかりしていたオレに「旅行の問題、答わかっていただろ?」とやさしく声をかけてくださったことが忘れられない。あの瞬間を思い出すとなんだかせつなくなってしまったのである。謹んでそのご冥福をお祈りしたい。さよなら児玉清さん、長年にわたってすてきな番組をありがとう。
永田喜彰のクイズ全書―即戦力を徹底強化する「実践1400問」 (センチュリープレス)
←1位を目指しています! m(_ _)m 週刊アクセス庵もよろしく。 投票博物館